あずさが、脅迫および操作のターゲットとして選定された要因。他人はわたしについて、なにを思っているのか。

「相手自身をネタにした脅迫によって、相手の言いなりに行動することになってしまった」件について、数回にわたって書いてきました。

 

わたしがターゲットとして選ばれた理由について少し考えてみます。

隠された脅迫に応じてしまいやすい人の特徴。論理が自分の役に立たないケース。 - 精神科医的ひとりごと(仮) と、重複する部分もあるかと思います。今回は、一般論というよりあずさ自身について、です。わたしの「アスペらしさ」にかかわる項目が多いかもしれません。あくまでわたしの、ですけれど。

 

ひとつは、他人をうまく疑えないことだと思います。疑うどころか、他人が自分に対して何かの意図を持って近づいてくるという前提がありません。(という、アスペの特徴についての記述を専門書で読んで、多くの人は意図を仮定しているのか、と、ものすごく驚きました)それぞれの人がそれぞれの想いを持っていて、それぞれの事情によりそれぞれの行動を決定している、そこまではわかるのです。その想いや行動の中に、人間関係というものが含まれていることもわかるつもりです。しかし、たぶん、それは第三者的に眺めているだけであって、自分がその中にいて、他人の考えや行動の対象になる・なりうるということがピンとこない。一生懸命考えればなんとなく想像はつくものの、意図的に考えないと頭に浮かぶことすらありません。

これ、ある教科書に、アスペの根本的特徴だと書かれていました。全てのアスペがそうだとまでは言いませんけれど、なんとなくわかる気がします。

 

他人が見えていない、というのもあります。他人が見えていないというより、他人が自分についてどう考えているのかがまったく見えていない、のほうが正確かもしれません。このケースにおいては、「みんな、あずさのことが嫌いだ」と言われてあっさり信じてしまったわけです。というのも、わたしにとっては、自分が他人にどう思われているのか、言葉以外で推し量ることが非常に難しい、よって、言語化された「みんな、あずさのことが嫌いだ」に飛びついて信じてしまったのだと考えています。

 

さらに、わたしの考え方のかなり底のほうにある感覚として、

「自分は間違っているかもしれない。その一方で、他人はつねに正しい」というものがあります。わたしが(たぶん)かなり高度に論理的なのも、自分は間違っている可能性があまりに高いために、その間違いを少しでも減らしたい、という動機に基づく努力の結果だったりするのです。

とはいえ、です。「他人がつねに正しい」だなんて、非論理的にもほどがありますね。これについては、自分の中にみごとにインストールされている「あずさにとっての(間違った)真実」なので、意識的に疑う習慣を身につける必要がありそうです。

 

他人が見えていない自覚はあるので、とくに自分がどう思われているかについてコメントされたとき、「それは違う気がする」とは思っても、「でも、わたしには何か見落としがあるかもしれないし」と引っ込めることがしばしばあります。この、他人がつねに正しいという前提は、さすがになんとかせねばなりません。

 

三人称的な話、自分が関わらない話であれば、論理はおおむねきちんと使えます。その一方で、自分を計算に入れたとたん、あれも不明これも不明、あげくのはてに「今見えないものも、存在する可能性がある」とまで考え始めてしまい、計算などどうやったって不可能になってしまうようなのです。

 

わたしの理解では、アスペの根本的特徴に近いところにある問題であるように思いました。ただ、これは、まだ検討の途中です。今後にわたり自衛は絶対に必要なので、実行可能な具体的解決策を作る予定です。