常同行動とマイルールが、生存戦略である件について。

自閉症の現象学 第8章です。ラストまできました。自閉症児/自閉症者の弱点と、それをカバーするためにとられている手段について、です。自閉症児については情動行動、自閉症者についてはルールとマイルールの扱いについて、ということになっています。

 

 

まずは自閉症児から。

視線触発から自他の区別や運動・感情の図式化(何がどうなっているかの分析)への過程の発達に時間がかかります。これはつまり、対人関係において入ってくる情報が整理されずカオスになりやすいということです。まったく整理されない情報は、かなりの恐怖を伴うため、枠組みがわかりやすい常同行動で秩序を取り戻し、安定します。

常同行動は100%予想できる未来を提供する(だって同じことを繰り返すのですから)ため、未来が予測不可能であるという、自閉症児が苦手とする状況も、避けることができます。

そして、常同行動で安心してこそ、たとえば自分が自分であると認識する、他人のかかわりを受け入れる余地を作るなどの、次の発達への準備ができるというのです。つまり、常同行動はサバイバルの手段であって、単なる症状ではない、ということですね。

 

 

もう少しいろいろと発達した自閉症者について。

いちばん特徴的なのが、ルールの扱いです。自然法則は論理で理解できるからいいんです。問題は、人間が作ったルールです。

定型発達におけるルールは、定型発達における大問題、つまり人間関係の問題を解決するために作られています。定型発達であっても、対人関係の謎はゼロにはならないわけですね。そして、人間関係で納得しづらいものごとを、ルール(など)で解決している。突然殺人を試みる人がいるかもしれないけど、それはダメだよね、みたいなことです。これらのルールが作られる動機は、つきつめると、視線触発から相手の情動や意図を汲み取りそして危険などを察知する、というところにあります。

自閉症者におけるルールは、いろいろな点で定型発達におけるルールと異なります。ひとつが、ルールの根拠。そもそも、視線触発から相手の情動や意図を汲み取るのが困難なので、ルールが必要だということが納得しづらい。というわけで、ルールは「必然性はないけど誰かが勝手に決めたもの」扱いです。わかる。わかりすぎます。

その結果どうなるかというと、誰かが勝手に決めたといってもルールを守るということだって決まってるんだから全部完璧に守らなきゃね、といって厳格に守る、というのが一つの帰結です。もう一つは、必要性について「自分が」納得すればルールは守るよ、という姿勢ですね。他人がそうしているから、という動機は、ない。ないです、はい。

また、自閉症者には、絶対に知覚や想像ができない「現実」が存在する、ということを受け入れることが難しいのでした。不確定な未来が代表でしたね。不確定な未来が目立つのは、ひま、偶然、運の3パターンです。これらが否定できないとなると、あっさり混乱する。ひまとか耐えられずに予定をびっしり入れる人っていますよね。ひまが出現するたびに読んだり書いたりすることを止められない人も、たぶんわたし以外にもいるでしょう。

受け入れづらい「現実」の範囲が広いために、マイルールも増える傾向にあるようです。わたしもそうです。

 

 

第7章につづいて第8章も、「わたしのことですか」という感じの内容でした。これでとりあえず、自閉症現象学の、本文は終了です。おわりに、の最後に、

本書は、定型発達との比較を通して自閉症を記述することになってしまった。恐らく本書の到達点から出発し直して、ポジティブに、否定形を媒介することなく、自閉症を記述することが可能になるのだろう。

とあります。たぶん著者のこの姿勢のおかげで、1ヶ月以上かけて最後まで読み進めてこれたのだと思います。

ここまでおつきあいいただき、ありがとうございました。