自閉症の現象学を、自閉症側から考えてみる。

自閉症の現象学 は、定型発達の視点から書かれています。定型発達の人にとって、最重要問題は人間関係ですから、人間関係のスタートである視線触発からして発達が「遅れがちな」自閉症者は、重要なものが足りない人として描かれることとなります。

しかし、です。人間関係が最重要、という視点ではないところから眺めれば、もう少し違う風景が広がるのではないかと思ったりします。それはそれで成り立つんじゃないのかなあ。

以下、自閉症現象学を材料とした、あくまでわたしの考えです。

 

 

自閉症であろうとなかろうと、生まれた瞬間には、自分と世界の区別はないと考えられます。そこで、自分の手で自分の顔を触ったとしましょう。触った手と触られた顔、どっちも自分ですよね。これを繰り返すことで、自分と自分じゃないものの区別がつきます。自分の輪郭がはっきりします。

狭いところにはまり込むと、自分の身体の境界ははっきりしやすいですし、常時、同じタイプの触覚が作動しますし、なにより、自分で自分の快適な位置を探すことができて、他人に謎に動かされたりしないので、安心感が高まります。

 

 

視覚について。最初はたぶん、何がなんだかわかりません。何がなんだか分からないものは怖すぎるので、できるかぎり、何がなんだか分かるようにしよう、と考えるのがふつうです。

ひとつは、細かい部分に注目するという手があります。細かい部分に注目すれば、たいていはシンプルな図形が見つかります。わけがわからない! からの脱却です。

自分の知っている図形などをひたすら並べるというのも、「わけがわからない!」からの脱却としてはよい方法のようです。ミニカーを並べる、曼荼羅を描く、曼荼羅じゃなくても画用紙の隅から隅まで色を塗る、などですね。

 

たとえばそこにあるコップについて、自分のものだとか他人のものだとかなどの意味付けをするわけではないので、知覚できるものについては正確に知覚できます。重要ではないコップだから適当に描くみたいなことをしないので、写生など正確な人が多いです。

知覚できるものを正確に描けるということは、知覚できないものを認識することが難しいということと同義です。とはいえ、知覚できるものだけで世界が構成されているということは、知覚できないものは問題にならない。本人はじつは困っていない、という可能性が高いです。

知覚できないものの代表は裏面ですけれど、これについては、裏に回り込むことで確認する、という抜け道があるようです。

 

 

言語により、ものを指し示し他者に伝達することは可能です。リアルな犬をさして「いぬ」と呼ぶことはもちろんできます。文法を習得して、複雑な内容を伝達することも可能です。感情などのノイズを含まない、正確無比な表現を目指すことができます。また、感情などのノイズを含まない、情報そのものを受け取ることも可能です。ノイズが少ないため、論理の組み立てはわかりやすく、複雑な情報の伝達にも長けていると考えられます。

 

 

知覚も想像もできない世界というものが存在する、ということを認めることが苦手な人は多く、彼らは、予想が外れると混乱しがちです。おそらくは、知覚や想像を可能な限り正確にする努力が行われることでしょう。

 

 

自分が納得したルールについて、遵守することはそこまで難しくありません。上記の通り論理のやりとりは得意なので、論理的な説明によって必要性を理解した上で、ルールを共有して、おそらくは平和に生活することができます。

ひまは苦手なので、つねに何かしている人のほうが多いかもしれません。常同行動は、自分自身の輪郭を確認したり、予想が完全に当たるという安心感を得ることができるので、常同行動を卒業した人であっても、予想外のアクシデントなどで疲れたときには役に立つと思われます。

 

 

この、それはそれで成り立っている自閉症的世界に、視線触発などを介して他者が入り込んできたらどうなるかは、別の記事で考えてみたいと思います。

常同行動とマイルールが、生存戦略である件について。

自閉症の現象学 第8章です。ラストまできました。自閉症児/自閉症者の弱点と、それをカバーするためにとられている手段について、です。自閉症児については情動行動、自閉症者についてはルールとマイルールの扱いについて、ということになっています。

 

 

まずは自閉症児から。

視線触発から自他の区別や運動・感情の図式化(何がどうなっているかの分析)への過程の発達に時間がかかります。これはつまり、対人関係において入ってくる情報が整理されずカオスになりやすいということです。まったく整理されない情報は、かなりの恐怖を伴うため、枠組みがわかりやすい常同行動で秩序を取り戻し、安定します。

常同行動は100%予想できる未来を提供する(だって同じことを繰り返すのですから)ため、未来が予測不可能であるという、自閉症児が苦手とする状況も、避けることができます。

そして、常同行動で安心してこそ、たとえば自分が自分であると認識する、他人のかかわりを受け入れる余地を作るなどの、次の発達への準備ができるというのです。つまり、常同行動はサバイバルの手段であって、単なる症状ではない、ということですね。

 

 

もう少しいろいろと発達した自閉症者について。

いちばん特徴的なのが、ルールの扱いです。自然法則は論理で理解できるからいいんです。問題は、人間が作ったルールです。

定型発達におけるルールは、定型発達における大問題、つまり人間関係の問題を解決するために作られています。定型発達であっても、対人関係の謎はゼロにはならないわけですね。そして、人間関係で納得しづらいものごとを、ルール(など)で解決している。突然殺人を試みる人がいるかもしれないけど、それはダメだよね、みたいなことです。これらのルールが作られる動機は、つきつめると、視線触発から相手の情動や意図を汲み取りそして危険などを察知する、というところにあります。

自閉症者におけるルールは、いろいろな点で定型発達におけるルールと異なります。ひとつが、ルールの根拠。そもそも、視線触発から相手の情動や意図を汲み取るのが困難なので、ルールが必要だということが納得しづらい。というわけで、ルールは「必然性はないけど誰かが勝手に決めたもの」扱いです。わかる。わかりすぎます。

その結果どうなるかというと、誰かが勝手に決めたといってもルールを守るということだって決まってるんだから全部完璧に守らなきゃね、といって厳格に守る、というのが一つの帰結です。もう一つは、必要性について「自分が」納得すればルールは守るよ、という姿勢ですね。他人がそうしているから、という動機は、ない。ないです、はい。

また、自閉症者には、絶対に知覚や想像ができない「現実」が存在する、ということを受け入れることが難しいのでした。不確定な未来が代表でしたね。不確定な未来が目立つのは、ひま、偶然、運の3パターンです。これらが否定できないとなると、あっさり混乱する。ひまとか耐えられずに予定をびっしり入れる人っていますよね。ひまが出現するたびに読んだり書いたりすることを止められない人も、たぶんわたし以外にもいるでしょう。

受け入れづらい「現実」の範囲が広いために、マイルールも増える傾向にあるようです。わたしもそうです。

 

 

第7章につづいて第8章も、「わたしのことですか」という感じの内容でした。これでとりあえず、自閉症現象学の、本文は終了です。おわりに、の最後に、

本書は、定型発達との比較を通して自閉症を記述することになってしまった。恐らく本書の到達点から出発し直して、ポジティブに、否定形を媒介することなく、自閉症を記述することが可能になるのだろう。

とあります。たぶん著者のこの姿勢のおかげで、1ヶ月以上かけて最後まで読み進めてこれたのだと思います。

ここまでおつきあいいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

共有してしまう感情、永遠にわからない他人。

自閉症の現象学 第7章です。

他人の視点からものをみることができるか、というのが、自閉症のこどもではよく問題になります。他人の視点からものを見るには、他人の視点に移動する以前に、自分の視点とは異なる他人の視点が存在する、という認識が必要です。その、「自分とは異なる他人」をどのように認識するか、というお話です。

 

 

まず、内面性について。相手が感情を持つというのはどうやったら認識できるのか、です。相手の感情は、主に表情から感じ取れます。

表情とは、運動感覚や情動性といった直接には見えないものが、お互いに作用しあって、身体の(顔の)表面に、見える形であらわれたもの(図式化)でした。この表情をみることで、見ているのは実際には顔という画像ではありつつも、相手の運動感覚や情動性を受け取ってもいる、といえます。

この図式化、自分と相手の間で起こります。自分と相手に、同時に起きると言ってもいい。相手の運動感覚や情動性が表情として、自分にとって図式化されるときには、自分の運動感覚や情動性が表情として、相手にとって図式化されてもいるわけです。

ところで、自分の身体は自分のもの、ですよね。たとえば鏡で見ただとか、触ってみて触っている自分と触られている自分が両方自分だと実感しただとか、手を動かしている自分と動いている自分が両方自分であるとかから、自分の身体と自分は物理的にはイコールである、と多くの人は学びます。同様に、相手の身体も、相手のものです。

相手の身体の表面に、相手の運動感覚や情動性が表情として図式化されている、ということは、相手の表情の向こう側に、相手の運動感覚や情動性の本体=内面とか感情とかが存在する、と想定できます。いいかえると、相手の表情は感情(内面)表現だった! というわけですね。

 

こうして、相手の運動感覚や情動性を感じ取り図式化することで、そもそも相手に内面や自分と違う感情がある、と学習するわけです。自閉症のこどもではこの運動感覚や情動性を感じ取るとか図式化するとかに困難がある場合が多く、結果的に、相手の内面や相手の感情を配慮することが難しくなったりします。

 

 

相手の運動感覚や情動性が表情として図式化するみたいなことは、自動で起こります。相手の感情が伝わってきてしまうのも、自動です。感情って、わりとうつったり共有できたりもしますよね。感情表現のベースの一つは筋肉の運動とその運動の自覚ですから、うっかり連動して同じものを感じちゃうことも、ありえるような気はします。

 

思考は、かなり努力しないと共有できません。共有したつもりでぜんぜんできてなかった! みたいなことは日常茶飯事です。そもそも、相手が何を考えているかなんて、実は永遠にわからない。これは原理的にそうなんです。

 

 

二人称、「あなた」「You」など、ありますよね。この「あなた」が、物理的にどの身体を指すのかはもちろん明言できるとは思います。しかしながら、人間が物理的にだけ規定されればいいかというとかなり疑問です。

物理的な定義を超えて「あなた」を定義しようとすると、「ほんとうのところ、何を考えているのか、何者なのか」という問いが発生します。これ、ふつう、答えられません。答えられたらおおごと、のたぐいです。そういえば、何をどうやってもわからない、知覚もできなければ想像もできないものを、現実と呼ぶのでしたね。

でも、わからないけど、「あなた」は成立するわけです。「あなた」って言っておけばなんとかなる。わからないとかどうとかごちゃごちゃ言うのやめときましょう、という、「とりあえずの蓋」的な役割が、二人称にはあります。

 

 

人格とは、以下の3つの構造の複合体であるといいます。

1)内面性。自分と相手は違う個体で、違う感情を持ちうるけど共有もできる。

2)視線触発。相手から自分に向かうベクトル。自他の区別のスタート。

3)結局何をどうやってもわからないという事実(現実)の存在を認識することと、二人称の使用でそのわからない現実を当座見えなくしてしまうこと

 

1)2)は、これまで扱った「自分と相手の間で動きなどがやりとりされる」=間身体性が関わってきます。つまり自閉症のこどもでは成立に時間がかかることが予想されます。3)についても、何をどうやってもわからないという現実を許容することは自閉症者にとってはかなりの難関です(第3章/第4章)。

だから、読書量が膨大で言語能力も高いはずのわたしが、サリーアン課題を通過できないみたいな事件が起きるわけです。あれはショックでした。

 

 

この章は、ASDのわたし自身いまだに解決できていない発達課題が多く扱われており、読んでてしんどかったです。あと1章、がんばります。

 

 

感情が含まれない声、すなわち棒読みについて。

自閉症の現象学 第6章です。ことばについて、発音が、意味とか感情とかと不可分な定型発達と、分離独立しているASD、みたいな話です。

 

 

間身体性ってありましたよね。自分と相手の「あいだ」あるいは境目。自分と相手の境目で、自分の運動と相手の運動、自分の感情と相手の感情を、同時に感じ取ってしまう、というのが、間身体性でした。

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ところで発声は、運動でもあります。口とかのどとかの筋肉を動かしていますから、これ、実際運動ですよね。聴いているときも、聴いている声にしたがって、口とかのどとかの筋肉には信号は伝わっているのだそうです。

 

 

というわけで、声を運動としてとらえることは可能です。運動と感情は連動するので、声は運動+感情と不可分である、ともいえます。もうちょっというと、声と単なる音とを区別するのは運動+感情なので、声=たんなる音+運動+感情 ということになります。

相手の運動+感情を感じ取っているわけですから、声も間身体性の仲間である、ということもできましょう。

 

 

自閉症のこどもでは、この間身体性が、じゅうぶんには発達していないことがあるのでした。そうはいっても、自閉症のこどもも、ことばは使います。運動+感情と合わさっていない「声」ということは、音と同義ですね。音であっても、たとえば、犬を「いぬ」と結びつけることはできます。

犬は「いぬ」でなくてはならない、わけではありません。英語であれば「ドッグ」ですし。リアルの犬と「いぬ」「ドッグ」の間には、必然性はとくにありません。約束事ですね。こういう、約束事ではあるけど必然性はない対応関係を記号といいます。記号は、運動とか感情とかと無関係です。

というわけで、自閉症のこどもも、記号としての言語は扱えるわけです。犬をさして、「いぬ」とは言える。

この場合、犬であることは伝わるんですけど、運動や感情は伝わりません。

 

 

運動や感情をまじえずに発声すると、たとえば「棒読み」になります。発声は定型発達においては、運動と感情とのセットであるはずなので、棒読みは違和感をもたれやすい。間違ってはないけど。

反対に、自閉症のこどもは、発声の運動成分や感情成分が感じ取りづらい。意味はわかるけど気持ちが通じない、みたいなことが起こります。気持ちが通じることを一般に「コミュニケーション」というらしいことを勘案すると、「単語と文法は身につけているのにコミュニケーションがとれない」という事態が発生します。

 

 

第6章は、わたしにとってはものすごく実感のある話でした。わたしはいわゆるハイパーレキシア(過読症)で、そのへんにある本を難解であろうとなかろうと全部読んでしまうこどもでした。これも、ことばが記号として登録され運動感覚を伴わないのが当然であったために、日常的か否かにかかわらず取り込むことができた、ということなのかもしれません。

頭の中の原稿用紙に書かれた文章を読み上げていた時期もありました。いま「棒読み」では決してないのですけれど、芝居の脚本を読んでいるのとたいして変わらないんじゃないかという実感がずっとあったんですよね。やっと説明がついた気がします。

 

というわけであとちょっと。ノート、足りるかな。

 

 

 

 

 

 

ASDの子どもが、ままごととかごっこ遊びとかを苦手とする件について。

自閉症の現象学 第5章です。第5章は、視線触発がないところでの自閉症児の発達と、どうやったって知覚とか空想とかできない「現実」についてです。現実は、第4章でもキーワードになっていました。

 

 

まず、第4章の続きから(第4章と第5章にまたがっているので、話の流れと長さの都合でこっちに移しました)

定型発達のこどもでは、抱っこは重要です。抱っこでは、こどもと母親は見つめ合います。つまり視線触発は働いています。で、母親(養育者ですけど、とりあえず母親で代表します)はこどもの動きや感情などを感じ取りそれとシンクロします。こどもは、抱っこされている件について拒否せず、母親に身を委ねています。こうして、こどもは自分自身の身体を実感する(自己触発)と同時に、視線触発により「見つめられる私」として、自己を発達させます。この、自己触発と視線触発が同時であるところがポイントです。

この一方で、自閉症児の場合、抱っこがうまくいきません。そもそも目が合いませんし、こどもは母親に身体をゆだねない。こどもから見ると、抱っこは、他人によって予測不可能な動きを強要されているのに近い体験です。これでは、こどもは自分の身体を実感するどころではありません。自己触発も視線触発も、起きていないということになります。

そうはいっても自閉症児にも、自己触発は起こります。常同運動で、繰り返し五感を刺激することで、自分自身の身体を実感するわけです。これは、自分一人でやっていることで、他人は関わりません。つまり、視線触発とは関係ない。自己触発と視線触発が別々に起こることが、自閉症児の発達のポイントになります。ちなみに、視線触発が起こっていない段階では、自分と自分以外の区別はありません。なので、自分の身体は実感しつつ、これが自分! という意識はまだ育っていないということになります。

 

 

さて。ままごととかごっこ遊びとか、わたしの子供時代を含む自閉症児が苦手な遊びについてです。

ここでのポイントは、石だとわかっている(知覚)と同時に、その石をケーキとみなせる(空想)ことです。自分だとわかっている(知覚)と同時に、自分をお母さんだとみなせる(空想)ことです。知覚と空想は、同時に起こりつつ、別々だと認識もされています。これを、知覚的空想といいます。

第4章で、知覚(目の前にあるもの)と空想(頭の中にあるもの、イメージといってもいいですね)の差は、どうやったってみえないもの(一瞬目の前から消えたとか、裏側とか)の存在を認めるかどうか、でした。そして、どうやったって知覚も想像もできないものを、現実と呼ぶのでした。

ということは、現実世界が成立(=どうやったってみえないものも、存在はするよねと認めること)してはじめて、知覚と空想は区別がつき、知覚的空想も可能になるということになります。

また、ままごととかごっこ遊びとかにおいては、空想(ケーキとみなされた石、お母さんとみなされた私)は、別の何か(ケーキ、お母さん)をあらわしています。これは、石とか私とかが、象徴とか意味とかであるとも言い換えられます。つまり、知覚的世界(石とか私とか)が、それ自体とは別の意味を持っているわけですね。ここで、話は第4章とつながります。

 

 

ちなみに、石とか隙間なく円形にしきつめて、曼荼羅みたいな模様をつくる自閉症児がいるのだそうです。このときには、その曼荼羅は、別の何かを示しているわけではなく、曼荼羅曼荼羅というか、純粋な形そのものです。意味がないというより、純粋な形を増やしていける能力とみてもいいんじゃないかな、というのが著者の主張です。

この曼荼羅、隙間がないことが特徴です。形=知覚できるものこそが問題となっていますから、知覚できないもの(隙間)がそこにあるというのは、存在しないはずのもの(空間)がそこにある! ということで大事件です。なので隙間がない。

これに対して定型発達のこどもの描いた絵とかは、基本的に隙間だらけです。これは、空間にも意味(わたしとお母さんのあいだとか)があるので、完全になにもないというわけではなく、空間がみえても大事件にはならないから、ととらえることができます。

 

 

勝手にまとめます。ASDの人は、知覚も空想もできないもの(現実)が、「それでも存在する」と想定することが苦手です。でもやっぱり、現実は現実で存在するので、現実(知覚も空想もできないけど存在するもの)の存在が否定できない! という事態で動揺しやすい。

なんかすごくわかる気がするんですけどね。これ、定型発達の人にはイメージできるのでしょうか。定型発達の人が書いた本だから大丈夫なのかな。どうでしょう。

 

 

 

みえないものがいっぱいみえている空間について。

自閉症の現象学 第4章です。第3章が時間でした。第4章は空間の話です。

 

 

わたしも含め、正確な写生や模写ができる自閉症の人は多いようです。

なぜ正確なのか。知覚(この場合は視覚)そのままだからです。じゃあ定型発達の人は? 何かしらのノイズが入っていると考えられます。

この場合のノイズとは、「意味」です。定型発達の人の絵は、むしろ意味で構成されています。

 

 

意味とはなにか。

たとえば風景画を描くとして。手前の家は自分の家で、庭に咲いてるのは自分が植えたチューリップできれいに咲いたので嬉しくって、昔遊んだ公園が向かいにあって、その奥には絶望的に気の合わないクラスメイトの家があって、ずっと向こうにはばあちゃんの実家がある山がみえて、昔登ったとき町が一望できて気分よかった、みたいな感じになりましょうか。これが意味です。たとえば感情(嬉しい)とか人間関係(気の合わないクラスメイト)とか用途(公園)とか。カメラが風景を捉えるのと違い、人が風景を眺めるとその構成要素に、見た目(知覚)以外の意味が与えられます。ちなみに、自分にとってぜんぜん意味をなさないものはわりと見えなかったりします。

この「意味」は、平面的とは言いがたいと思います。自分にとって重要なものは目立つでしょうし、さほど重要でないものは目立たないでしょうし、ぜんぜん意味がないものはひょっとしたら見えなかったりするわけです。複数重なってもいますね。公園であり昔遊んだ場所であり今行くと遊具が片付けられててちょっとさみしいな、みたいな。その一方で、見たまま正確に、というのとはかなり違います。裏を返すと、こういう「意味」を除いた絵は、とても写実的になります。

定型発達では、風景に意味が重なっているといっていいでしょう。

 

じゃあ自閉症の人は? 風景は風景の場合が多いようです。だから、謎に正確な写生ができてしまったりします。わたしも、描くべきものさえ目の前にあれば、絵はけっこううまいです。これはつまり、意味の存在が薄くて、知覚だけを際立たせるのが簡単で、意味を排除して写真みたいに「みたまま」写し取ることができる、ともいえます。

 

 

で、この意味の出どころは結局のところ視線触発です。

視線触発が、なんにもない、のっぺらぼうの空間にベクトル(こことそこの差)を生じさせ、自分と自分以外のあいだに仕切りを作るんでしたね。のっぺらぼうの空間には意味は少なそうですけれど、わたし/相手が出現すれば、そこには最低限2つの意味(わたしと相手)が出現しますし、ひょっとしたらその後、それ以上のいろいろも出現するかもしれません。

 

 

さて。自閉症の人は、段階によっては「見えないものが存在しない」世界に住んでいることがあります。たとえば誰かが別の部屋に行って(見えなくなって)また戻ってくるとすると、その誰かは一回消滅して、似た誰かが登場したけどもとのその人かどうかは保証ができない、みたいな世界です。

この場合、見えている世界=(その人にとっての)外部世界、ですね。しかしこれイコールですから、見えている世界と外部世界の見分けはつかない、ということになります。

 

 

見えている世界と外部世界の区別は、「いったん隠れて見えなくなったものと再び現れたものは同じものだよね」という概念です。恒常性といいます。見えている世界には恒常性はなく(視界から一回消えたものは再登場しても同じものであるとはかぎらず)外部世界には恒常性があります。

 

見えないものの代表は「裏側」です。ひっくり返せば見えるけど、今度は表が裏になってやっぱり同時には見えませんね。恒常性から見える部分を引き算すれば、裏側(みえないもの)ということになります。こうして、論理(数学?)を用いて、みえない! という不安は解決されている、と考えることもできます。

第三章の、未来の話にも似ていますね。未来の予測は絶対に未来と一致はしなくてその差は絶対に知覚/想像できないけど、それはそれとして未来ってそういうものだよね、ということになってるから、あまり不安にはならない。

 

自閉症の人は、こういう「みえないもの」=「知覚できないもの」の扱いが多少苦手であるということのようです。

 

 

じゃあ、みえないものを使わずに、知覚できるものだけで空間世界をごちゃごちゃから救い出す(構造を作る=構造化)にはどうするか。

一つの答えが、地下鉄とかに何度も乗ることなのだそうです。路線図って、標識(駅名)と線でできていますよね。これは非常に単純な空間の構造化であるといえます。用途とか人間関係とか感情とか抜きに、単に駅名。そしてつなぐ線。これを繰り返し追体験する=同じ路線に何度も乗ることで、この構造化を確認して確実なものにしているというのです。

ライトバージョンとしては、通勤通学路を絶対に変えない! というものもあります。これも同様に、同じ風景、自分の頭の中の地図を、毎日再確認している。わたしもそういえば、風景を確認しつつ通勤してますね。道は絶対変えません。

 

 

方向音痴の話もあったのですけれどどうもイメージできないというかわたしのイメージにあわないので、本筋ではないですし割愛します。というわけでやっと半分です。