多様性を受けいれる、みたいなこと。じつはおたがいさまだったりします。
アスペであろうとなかろうと、という合理的配慮。 - 精神科医的ひとりごと(仮) のつづきです。
アスペの特徴として、
・まわりがあっさりできることがいつまでたってもできない
というのはわりと有名かな、と思います。わたしでいえば、ちょうちょ結びができない、みたいな感じです。(小学校低学年) どうしてもできないことは免除してあげましょうよ、という方針が一般的になりつつあるように思います。どうかしら。
ちょうちょ結びはともかく、逆上がりについては免除してほしかったような… あれ、できなくてもその後の人生において支障はないですよね? どれだけ練習しても一向にできるようになるきざしすらないというのはしんどいものです。真面目にやっているのか疑われたりして。
さて、これね、逆もあるんです。
・まわりがなかなかできないことがあっさりできてしまう
ときどきあるんじゃないかと思います。わたしの場合、小学校高学年ですでに講談社新書とかブルーバックスとか、松本清張とかを読んでいた、ということが当てはまりましょうか。(少年探偵団とかも読んでましたよ)
小学校ならいざしらず、これ、大人になると問題を起こすことがあります。
「この本(難解で有名な本、しかし名著)面白かったですよ」
とか他の人に話しかけたとしましょう。その人もその有名な本は読もうとして、難解なので挫折した可能性があります。可能性がある、というかその可能性は高いですよね。これで腹を立てる人は多いです。嫌味だとかなんだとか。そういうつもりはもちろん全然ないんです。しかし、「誰がどう見てもよいこと」を、「自分が実行している」場合、反感はさらに増すみたいなんですね。反論できないからかな、と推測しています。
まとめると、
・まわりがあっさりできることがいつまでたってもできない
・まわりがなかなかできないことがあっさりできてしまう
の両方がありえるということですね。双方向。これ、アスペに限らないですよね。得意不得意が極端なひとは、アスペじゃなくても存在します。ただ、アスペはその程度が極端ですし、通常の学習順序を経ないこともあるため驚かれることが多いってだけです。
得意不得意、その時点でできることできないこと、人によるよね、ってことです。もちろん、不得意なことにチャレンジするのはわるいことではありません。それはいいんだけど、「なぜできない!」って、他人を責めずにいられるといいよね、と思うのです。他人ができているのを見て「なぜできない!」って、自分を責めるのも、避けられたらいいなと思います。両方のトラブルをじゅうぶんすぎるくらい経験してきたあずさとしては
・自分/他人の「ぜんぜんできない」に対して責めずにいてほしい
・自分/他人の「なぜそんなにできるんだ」に対して素直に感心しようよ
この二つを、提案したいです。これってつまり、多様性を受け容れるってことですよね? 小学校の道徳で教えてくれないかしら…