感情が含まれない声、すなわち棒読みについて。

自閉症の現象学 第6章です。ことばについて、発音が、意味とか感情とかと不可分な定型発達と、分離独立しているASD、みたいな話です。

 

 

間身体性ってありましたよね。自分と相手の「あいだ」あるいは境目。自分と相手の境目で、自分の運動と相手の運動、自分の感情と相手の感情を、同時に感じ取ってしまう、というのが、間身体性でした。

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ところで発声は、運動でもあります。口とかのどとかの筋肉を動かしていますから、これ、実際運動ですよね。聴いているときも、聴いている声にしたがって、口とかのどとかの筋肉には信号は伝わっているのだそうです。

 

 

というわけで、声を運動としてとらえることは可能です。運動と感情は連動するので、声は運動+感情と不可分である、ともいえます。もうちょっというと、声と単なる音とを区別するのは運動+感情なので、声=たんなる音+運動+感情 ということになります。

相手の運動+感情を感じ取っているわけですから、声も間身体性の仲間である、ということもできましょう。

 

 

自閉症のこどもでは、この間身体性が、じゅうぶんには発達していないことがあるのでした。そうはいっても、自閉症のこどもも、ことばは使います。運動+感情と合わさっていない「声」ということは、音と同義ですね。音であっても、たとえば、犬を「いぬ」と結びつけることはできます。

犬は「いぬ」でなくてはならない、わけではありません。英語であれば「ドッグ」ですし。リアルの犬と「いぬ」「ドッグ」の間には、必然性はとくにありません。約束事ですね。こういう、約束事ではあるけど必然性はない対応関係を記号といいます。記号は、運動とか感情とかと無関係です。

というわけで、自閉症のこどもも、記号としての言語は扱えるわけです。犬をさして、「いぬ」とは言える。

この場合、犬であることは伝わるんですけど、運動や感情は伝わりません。

 

 

運動や感情をまじえずに発声すると、たとえば「棒読み」になります。発声は定型発達においては、運動と感情とのセットであるはずなので、棒読みは違和感をもたれやすい。間違ってはないけど。

反対に、自閉症のこどもは、発声の運動成分や感情成分が感じ取りづらい。意味はわかるけど気持ちが通じない、みたいなことが起こります。気持ちが通じることを一般に「コミュニケーション」というらしいことを勘案すると、「単語と文法は身につけているのにコミュニケーションがとれない」という事態が発生します。

 

 

第6章は、わたしにとってはものすごく実感のある話でした。わたしはいわゆるハイパーレキシア(過読症)で、そのへんにある本を難解であろうとなかろうと全部読んでしまうこどもでした。これも、ことばが記号として登録され運動感覚を伴わないのが当然であったために、日常的か否かにかかわらず取り込むことができた、ということなのかもしれません。

頭の中の原稿用紙に書かれた文章を読み上げていた時期もありました。いま「棒読み」では決してないのですけれど、芝居の脚本を読んでいるのとたいして変わらないんじゃないかという実感がずっとあったんですよね。やっと説明がついた気がします。

 

というわけであとちょっと。ノート、足りるかな。