精神科的内部事情。スタートから流派が2つあった件について。

精神科の歴史的有名人といえば、フロイトでしょうか? 「無意識」とか「夢分析」とか言い出した人ですね。業界的にはクレペリンかしら。現在の、統合失調症だとかうつ病だとかそううつ病だとか不安神経症だとか、精神科であつかう病気の分類体系を作った人です。この二人の前後にも、もちろん偉い人たちはたくさんいます。ものすごくおおざっぱな話をするので、もしも精神科の偉い先生がこの記事を読んでいらしたら、「細部を見過ごす能力がとくに高いらしい」と、笑って許していただければたいへんうれしいです。

 

この二人、実をいうと、精神科ある二大流派(?)の代表ともいえるんです。

 

何がどのように違うのかというと、

フロイトは診療所で診療をおこなっていました。

クレペリン精神科病院で働く医師でした。

 

これは、日々診ている患者さんの違いにつながります。

フロイトがおもに診ていたのは、フロイトと同じ街に住んでいる比較的軽症の、入院とか転地療養とかせずに暮らすことのできているひとたちでした。長い間通院を続けられるくらい裕福なひとたちでもあったようです。

クレペリンが診ていたのは、当時、ろくな治療もなかった時代に、それでも入院して暮らすしかないほどに重症なひとたちでした。

 

実をいうと、おおまかに言うと(例外はいっぱいあります)あつかう病気も違ったりします。

フロイトは比較的軽症、あるいは生活に支障をきたしづらい病気、つまり神経症(不安神経症とか強迫神経症とかです)をあつかうことが多かったと言われています。

クレペリンは、少なくとも病状が悪いあいだは生活に多大な支障をきたす病気、すなわち統合失調症うつ病・そううつ病てんかんも含めることがあります)をあつかうことがほとんどでした。

 

その結果何が起こったかというと、診療そのものに対する考え方が違ってきたのです。

フロイトはそもそも、「話す」エネルギーがあるひとを相手にしています。話をするなかで、いろいろなことがお互いわかって、患者さんは自分の問題を徐々に解決して元気になっていくわけです。カウンセリングにつながりそうですよね。また、この方法は、診断はそれほど厳密ではなくとも、会話から得られる情報をもとに次の作戦を立てて本人と話し合うなどして方針を立てることができる場合が多いです。診断よりも「その人」そのものを理解することが重要視されることもあるでしょう。

クレペリンが相手にしていたのは、もっと重症なひとたちです。話すどころではない人たちもおおぜいいますし、話せても内容がよくわからない人たちもいます。(いまでも、たとえば重症のうつ病の人たちは、しゃべるどころではないですね)はじめのうちは、手がかりも何もなかったので、彼は、今後のために、まずは病気の分類をしっかり作ろうと考えたのでした。統合失調症うつ病、そううつ病だけではなく、たとえば頭のけがだとか脳梗塞とかで症状が出ているひと、身体の病気なのに精神科の症状もあるひと、悩み事が症状につながっていることが明らかなひとなどを、彼はきちんと分類していきました。分類があれば、今後診断や研究、治療を行う際に、進歩が速いと考えられるからです。たとえば、頭のけがが精神科的症状につながっているひとと、悩み事のせいで精神科的な症状が出現しているひとでは、治療方針が変わりそうですよね。くすりも、違うものが効くかもしれません。現在の精神医学の主流は、おもにクレペリンの方針をうけついでいます。

 

そうはいっても、フロイトの考えかたも、精神科業界に大きな影響を与えています。患者さんに話をしてもらいそれを治療につなげる、これも、ほとんどの精神科医が行っていることです(精神療法といいます)。

 

で、誤解されそうなくらいおおざっぱにいいますと、「話を聴いて問題点を整理しながら、患者さんがいろいろ自分で気づいて元気になっていくのが自然だよね」という考えと「きっちり診断して論理的に診断を決めて、それに基づいて治療しようよ」という考えの両方が、一人の精神科医のなかに同居しているのがふつうなわけです。どっちがどのような割合なのかは、精神科医自身の好みの問題だけでなく、受けてきた教育や読んできた本、出会った患者さんなどによって決まってきます。

 

というわけで、精神科の治療が、病院によって、また、医者によって、ぜんぜん違うのは、歴史から考えると当然?の帰結なのです。統一したほうがいいような気もする一方で、医者も患者さんたちも、いちばん「合う」割合でなりたっている精神科医療にたずさわることができたらベストだよね、と考えたりもしています。どちらの流派にも、「そっちのほうが元気になりやすいひと」がいることは確実ですし、医者の側にも、どちらかがより得意、というひとがたくさんいますから。