共有してしまう感情、永遠にわからない他人。

自閉症の現象学 第7章です。

他人の視点からものをみることができるか、というのが、自閉症のこどもではよく問題になります。他人の視点からものを見るには、他人の視点に移動する以前に、自分の視点とは異なる他人の視点が存在する、という認識が必要です。その、「自分とは異なる他人」をどのように認識するか、というお話です。

 

 

まず、内面性について。相手が感情を持つというのはどうやったら認識できるのか、です。相手の感情は、主に表情から感じ取れます。

表情とは、運動感覚や情動性といった直接には見えないものが、お互いに作用しあって、身体の(顔の)表面に、見える形であらわれたもの(図式化)でした。この表情をみることで、見ているのは実際には顔という画像ではありつつも、相手の運動感覚や情動性を受け取ってもいる、といえます。

この図式化、自分と相手の間で起こります。自分と相手に、同時に起きると言ってもいい。相手の運動感覚や情動性が表情として、自分にとって図式化されるときには、自分の運動感覚や情動性が表情として、相手にとって図式化されてもいるわけです。

ところで、自分の身体は自分のもの、ですよね。たとえば鏡で見ただとか、触ってみて触っている自分と触られている自分が両方自分だと実感しただとか、手を動かしている自分と動いている自分が両方自分であるとかから、自分の身体と自分は物理的にはイコールである、と多くの人は学びます。同様に、相手の身体も、相手のものです。

相手の身体の表面に、相手の運動感覚や情動性が表情として図式化されている、ということは、相手の表情の向こう側に、相手の運動感覚や情動性の本体=内面とか感情とかが存在する、と想定できます。いいかえると、相手の表情は感情(内面)表現だった! というわけですね。

 

こうして、相手の運動感覚や情動性を感じ取り図式化することで、そもそも相手に内面や自分と違う感情がある、と学習するわけです。自閉症のこどもではこの運動感覚や情動性を感じ取るとか図式化するとかに困難がある場合が多く、結果的に、相手の内面や相手の感情を配慮することが難しくなったりします。

 

 

相手の運動感覚や情動性が表情として図式化するみたいなことは、自動で起こります。相手の感情が伝わってきてしまうのも、自動です。感情って、わりとうつったり共有できたりもしますよね。感情表現のベースの一つは筋肉の運動とその運動の自覚ですから、うっかり連動して同じものを感じちゃうことも、ありえるような気はします。

 

思考は、かなり努力しないと共有できません。共有したつもりでぜんぜんできてなかった! みたいなことは日常茶飯事です。そもそも、相手が何を考えているかなんて、実は永遠にわからない。これは原理的にそうなんです。

 

 

二人称、「あなた」「You」など、ありますよね。この「あなた」が、物理的にどの身体を指すのかはもちろん明言できるとは思います。しかしながら、人間が物理的にだけ規定されればいいかというとかなり疑問です。

物理的な定義を超えて「あなた」を定義しようとすると、「ほんとうのところ、何を考えているのか、何者なのか」という問いが発生します。これ、ふつう、答えられません。答えられたらおおごと、のたぐいです。そういえば、何をどうやってもわからない、知覚もできなければ想像もできないものを、現実と呼ぶのでしたね。

でも、わからないけど、「あなた」は成立するわけです。「あなた」って言っておけばなんとかなる。わからないとかどうとかごちゃごちゃ言うのやめときましょう、という、「とりあえずの蓋」的な役割が、二人称にはあります。

 

 

人格とは、以下の3つの構造の複合体であるといいます。

1)内面性。自分と相手は違う個体で、違う感情を持ちうるけど共有もできる。

2)視線触発。相手から自分に向かうベクトル。自他の区別のスタート。

3)結局何をどうやってもわからないという事実(現実)の存在を認識することと、二人称の使用でそのわからない現実を当座見えなくしてしまうこと

 

1)2)は、これまで扱った「自分と相手の間で動きなどがやりとりされる」=間身体性が関わってきます。つまり自閉症のこどもでは成立に時間がかかることが予想されます。3)についても、何をどうやってもわからないという現実を許容することは自閉症者にとってはかなりの難関です(第3章/第4章)。

だから、読書量が膨大で言語能力も高いはずのわたしが、サリーアン課題を通過できないみたいな事件が起きるわけです。あれはショックでした。

 

 

この章は、ASDのわたし自身いまだに解決できていない発達課題が多く扱われており、読んでてしんどかったです。あと1章、がんばります。