精神療法とは何かみたいなこと6。話を聴いてください!

「話を聴いてほしい」というリクエストはよくあります。

「話を聴いてほしいとのことです」と、看護師さんに言われることもあります。

「話を聴いてくれなかった!」との不満もしばしば耳にします。

 

 

話を聴くというのは技術だと思います。「相手がしゃべっている、それに対して、口を挟まず集中して聴く」こともすでに技術です。「チーム・バチスタの栄光」における「愚痴外来」はこれでした。患者さんは、話を聴いてもらううちに自分で何が問題であったか気づいて、それを解決したり、場合によっては、すでに解決していることに気づいたりする。

これが治療である。そのとおりです。話を聴いている。そのとおりです。

で、これだけが「話を聴く」ことなのか、あるいは、常にこのスタイルがベストなのか、それは、別の問題のように思います。

 

 

 

別のスタイル、の話の前に。

前述の愚痴外来、一人あたり2時間とかかけてるはずなんですよね。通常の診察で毎回そんな時間をかけることはなかなかできません。カウンセリングは精神科の診察よりは時間が取りやすいですけれども、それでも、2時間は難しい。

それでも、それで問題が解決するなら当然やる価値はあります。たぶん、この愚痴外来の特徴のひとつはそれが「大学病院の、自分の病気とその治療について」の愚痴であることかなと思うのです。話題ははっきりしているし、たとえば手術は終了しているし、これについて納得する、気持ちを落ち着ける、そういうゴールははっきりしています。また、発生して日の浅い問題は、比較的短時間で解決する傾向にあります。つまり、愚痴外来は、一回に長い時間をとったとしても、少ない回数=短期間で終了する。

また、愚痴外来に来る人たちは、精神科的な病気は持っていません。精神科的には健康な人たちに起きた、その人のキャパを超えた不幸/理不尽なできごとについて扱う場であると言ってもいいでしょう。精神科的に健康というのは、おかしいとかおかしくないとかじゃなくって、精神的なエネルギーが多い、回復する力が大きい、ということです。納得すれば、話を聴いてもらうことで「ケアされた」感覚を持てば、あとは自力で回復できる。

 

 

そのいっぽうで。

精神科を受診する人たちの多くは、上であげた条件に合致しない。

 

・「問題の件」がなんなのかはっきりしていない、あるいは解決していない

・なので、納得とか溜飲を下げるとかのゴールが設定しづらい

・何かテーマがあるとしても、きのうきょうの問題ではない

・精神的なエネルギーが下がっている

 

…という人たちが多いのは、想像に難くないかと思います。

 

 

この件は、カウンセラーとの役割分担というわけではないのですけれど、たぶん大事なことです。わたしの頭の整理をかねて、もうちょっとつづけます。