自分の知らない絶対的なルールがあるという無力感について。

先生が多数派で、生徒がASDの場合、そのASDの生徒はしんどい目にあいそうです。論理が苦手で、感情豊かな先生であればなおのことでしょう。以下、わたしの過去からの分析です。

 

 

多数派の先生としては、立場が上である先生が喜ぶから、あるいは、先生が怒ったり悲しんだりするから、生徒はルールなどを学習するのだと信じています。自分自身がそうやって学んできたからです。自分自身がそうやってルールなどを学び、よい生徒として学生時代を過ごし、大学まで進んで教師になったわけですから、先生としてはこの指導法に自信を持っています。

というわけでその、自信を持っている指導法で、生徒を指導します。たとえば廊下を走ってはいけません、としましょうか。廊下を走ってはいけません、と怒るわけです。

 

 

そのいっぽうで、ASDの人は、その指示に筋が通っている、合理的である、ということで指示に従います。学習もします。

 

 

多数派の生徒であれば、先生が怒っているということは廊下を走ることはわるいことであると判断して、廊下を走るのをやめます。指導成功です。

これは、廊下を走ることがわるいことであるかどうか、わるいとしてもどういう理由なのか、は問いません。先生が怒っているからやめておこう、というわけです。

 

 

ASDの生徒が、なぜ廊下を走ってはいけないのか理解できないとします。

先生はなぜ怒っているんだろう、なぜ廊下を走ってはいけないんだろう。たぶん質問します。しかしこれはしばしば、反抗として扱われます。なぜかよけい怒られる。そしてその指導は学習されない。指導失敗です。

 

 

ASDの生徒から見ると、理由や意義のわからない指示を押し付けられ理由は開示されない、ということになります。自分だったら説明するよなあ、と考えます。説明を省略して怒るのはどういうときでしょう。

ASDの生徒であっても、誰がどう見ても説明不要なルールであれば説明を省略するかもしれません。たとえば人を殺してはいけないのはさすがに説明不要だし法律でも決まっているから、そういうことは説明を省略する可能性があります。そう考えると、廊下を走ってはいけないというのは、人を殺してはいけない、というレベルの、道徳的にも法律的にも自明なルールであると結論づけられます。

しかし、この例においては、ASDの生徒は、はそのルールについてまったく知らないわけです。重要ルールについて無知であるというのはかなりまずいことです。

以上より、「先生の背景にはわたしの知らない絶対的ルールがあるんだろう」と仮定するASDの人がいてもおかしくはありません。先生の背景にあるのは、世間とか世界とかよのなかとかです。ということは、世間とか世界とかよのなかに対する無力感ですよね、これ。

 

 

わたしだけかもしれません。しかし、同様の無力感を抱いている患者さんを診たことが、ないわけではありません。超例外である可能性は否定しませんけれど、そういう人もいる、くらいは言ってもいいでしょう。

 

 

だれかが、たとえば「廊下を走ったら他の生徒にぶつかるから、走らないようにしようね」と説明してくれれば、ASDの生徒も安心して指示に従えます。それは先生自身じゃなくてもいい。説明するのは、ASDでも多数派でもいい。じつをいうと、その説明が間違っていても、たぶんかまわない。

説明できないルールもあります。謎の校則とか。それでも、校則には従う必要があると、だれかが諭してくれればずっと楽です。そこに「校則」というある意味恣意的なルール、ひょっとしたら時代遅れになっているルールがあり、それには従うことになっているとすれば、それさえ明らかになれば、「自分の知らない絶対的なルール」ではなくなるからです。

 

 

世界とかよのなかとかが、自分の手の届かない絶対的ルールで回っていると感じるよりも、自分にも理解可能なルール、自分も知ることができるルールで回っていると信じられるほうが、ずっと安心して暮らせるように思います。どうでしょう。

 

 

 

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