よのなかのなりたち ーASDって治るんですか(2)

 ASDを根本的に治す(消す)ことは、いまのわたしには不可能です。とはいえ、今後可能になるかもしれませんし、わたし以外の人がやっていることかもしれません。そうはいっても、いまの時点でできることもあるわけです。

 

 

世の中に起きている(ASDの人にとっては)謎の現象を言語化する、ということは、有効であるように思います。ASDの人の思考回路を説明するのではなく、多数派の人の思考回路や世の中の成り立ちを説明する。絶対正しいという保証はなくても、です。

 

 

一つ例を挙げます。

「なぜそうなるのかたずねたら怒られた」というエピソードはよく聞きます。いちばんよくあるのが、「なぜ怒っているのかたずねたらよけいに怒られた」です。納得がいかない。わたし自身にも覚えはあります。

 

「自分が、なぜ怒っているのかたずねられたらどう思う?」

「相手がわからないならわかるまで説明します。わからないなら聞いてくれたほうがありがたいです。いくら説明してもわからない場合はイライラするかもしれないけど、少なくとも説明は試みますし、相手がわからないのは自分の説明が悪いからかもしれないと思うのでそのイライラも自分の問題かなと思います。」

…… 「自分だったら」と自分に置き換えて考えても、たぶん、答えにはたどり着かないわけです。

 

わたしもすべて言語化できているわけではないのですけれども、説明をこころみます。

「自分がわかっていることは相手もわかっているはずだと思いこんでいる人が多い」

「自分の怒っている理由について、言語化できない可能性がある」

言語化できない場合、自分の言語能力のせいであるという反省を省略していらだち、そのいらだちを相手にぶつける人もいる」

…… あたりでしょうか。

 

「そんなわけはない、自分と他人は違う人だから自分がわかっていることがわからない人もいると思うし、なぜ怒っているのかは基本的には言語化できるしかりにできないとすると言語化できないと表明するし、言語化できないのは自分の問題であると認識している」

…… わたしもそう思ってたんですけどね。どうもそれは、少数派のようです。多数派が正しいとは限らない。少数派が劣っているとは限らない。ここポイント。

 

 

ASDの人でいちばんひっかかるのが、多数派の人が「自分の怒っている理由を言語化できない可能性があり、また、言語化できないという事実を認識できていない可能性も高い」というところのように思います。理不尽ですけどね。わたしもそう思います。しかしながら、そういう人が多数派であれば、それは許されてしまうわけです。

 

 

言語化できるのとできないのとどちらがいいかというと、言語化できるほうがいいと思います。言語化できないときに言語化できないと表明するのと逆ギレするのでは、言語化できないと認めるほうがいいと思います。たぶんね。つまり、ASDが絶対的に劣っているとはいいがたい。

そこまで考えたうえで、「そういうもの」と知っておくだけで、自分を責めなくて済むぶんずいぶん楽になるように思うのです。わけがわからないという恐怖からも自由になれますし、ね。