指示はことばで、というと漠然とした反発を受ける件について。

 忖度とか怖いし、とか、指示はことばでお願いします、とかいうと、多数派の人たちから漠然とした反発を感じることがあります。この、「漠然とした」には、わりと重要なポイントが隠されているのではないかとふと思いました。

 

 ASD、なかでも、言語能力高めのASDであるわたしであれば、忖度とはどういうもので、忖度のデメリットはこれで、ASDのわたしにはこういう点で有害で、ASDではない人にもこのように有害で、だから忖度は撤廃したいよね、みたいな文章を書くことは可能です。もちろん、すべての視点を網羅した名文は書けないでしょう。とはいえ、少なくとも、言語化して、他人に理解できるような文章にまとめることは可能です。

 

 これ、全員に可能なのかと。とくに、多数派の人たちに可能なのかと。

 

 ASDのわたしは、非言語的な指示の手段を持ちません。指示を出すにしても受けるにしても、ことばがいちばん都合がいい、というか、ことばがほぼ唯一の手段です。説明についても同様です。なにかを理解するにも、なにかを伝えるにも、ことばがもっとも効率がよく、正確でもあります。使うエネルギーも、少なくて済みます。

 

 しかしながら、たとえばこの忖度の話、「忖度ができないASDのわたしが不十分であっても説明できるくらいだから、同じような言語能力をそなえた人であれば忖度ができる多数派の人はもっともっと正確にわかりやすく説明ができるはずで、エネルギーもそんなに必要とはしないだろう」とついつい考えてしまっていることに気づいたのです。

 これ、ほんとうに正しいのでしょうか。というのも、多数派の人たちは、わたしと違って、非言語的な(忖度含む)コミュニケーション手段を持ちます。ことばのほうが楽だろう、というわたしの疑問はさておき、非言語的なやりとりはしばしば行われていますし、言語的なコミュニケーションより優先される場面も多いです。これね、非言語的コミュニケーションのほうがコストが低いからなんじゃないかと思うのです。

 同じことを伝えるのに(たとえば、茶碗を洗え)二つ方法があるとして、どっちかの方法が楽だとしたら、もう一つの方法は面倒に感じますよね。記号にするとこんな感じかな。

ASDあずさ

 A そもそも不可能なので却下

 B 快適かつ効率的

多数派の人たち(たぶん)

 A 快適かつ効率的

 B できないことはないけど不十分かつ非効率かつ面倒

わたしにとっては、Bしかない。ということは、当然Bを選びます。

しかし、多数派のひとたち(たぶん)にとっては、Bは不可能じゃないけど、断然Aですよね。Bでお願いします、と言われると、面倒だなとかだるいなとか、ひょっとしたら、コストを強要しやがってとか、思うかもしれません。

 

 また、コミュニケーションが円滑そうなのでASDあずさがうっかり見落とすのが、多数派の中にはことばが苦手、少なくともわたしよりは苦手な人もいて、わたしが気軽に言語化することであってもじっさいには言語化できない(できるかもしれないけどコストを考えると現実的ではない)ひとたちがいるようだ、ということです。

 ASDあずさが自分にとって当然のことを要求したつもりで、多数派の人たちに図々しいだとかなんとか怒られるのはこういうことかなと。コストを強要、ひょっとしたら、不可能なことを要求しているのかもしれません。

 ここでもう一つ。わたしはことばで問題提起することができます。そもそも問題提起は、言語で行うことがもっとも手っ取り早いです。言い換えると、言語というのは問題提起に適したツールです。わたしが扱えるのはことばだけとはいえ、この、わたしの唯一の道具であることばは、問題提起に適している。しかし、世の中には言語が苦手な人たちがいて、この人たちは問題提起に困難を抱えているかもしれず、また、わたしの問題提起に有効な反論をすることが難しいあるいはできないかもしれないのです。ひとつの手段が無効なとき、自分にとって得意な手段をとるのはふつうのことで、わたしが非言語的な攻撃を受けがちなのは、無理もないことかもしれません。

 

 いい子ぎみにまとめると、多数派に求めるのと同様の配慮を、わたしも多数派に対して行う必要がある、ってことですね。ついつい弱者の気分になって(じっさいマイノリティではあるしどっちかというと弱者ではありますけれど)一方的に要求しがちなので、そこは気をつけてみたいと思います。