コミュニケーションの作法3。規則違反とその罰則。
ソーシャル・マジョリティ研究(の復習)、つづきます。今回は、たとえば前回のルール(質問には返事、あいさつにはあいさつ、提案には拒否あるいは受諾、などなど)を破った場合どうなるか、です。
たとえば学校で。
先生 35+26はいくらか。
生徒 61です。
これは普通の会話ですね。質問に対する返事です。
これが、以下のように「返事」をするとどうなるでしょうか。
先生 35+26はいくらか。
生徒 いくらだと思います?
これ、やばいですよね。質問に質問で返している。絶対怒られます。まちがいない。
同様に、先生が怒っているとして、
先生 なぜ宿題をやってこなかったのか。
生徒 部活が夜遅くまであったからです。
これも、まずいわけです。叱責に説明で返してはいけない。叱責には謝罪ですね。ごめんなさい、が正しい。というわけでこの生徒はよけいに怒られます。あるあるです。そうでもないですか?
たとえば質問には返事、叱責には謝罪、といった期待されるペアに従わずに応答する場合(無視も含む)、基本的には相手の怒りを買います。ひっくり返すと、喧嘩を売りたければそういう期待をわざわざ無視するという手もあるってことです。上の2例、「ふざけるな!」と怒る先生もいそうじゃないですか。
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最初の例にはもう一つ問題があります。
先生 35+26はいくらか。
生徒 いくらだと思います?
学校の授業において計算問題が出題される場合、ほぼまちがいなく、先生が質問する側、生徒が回答する側ですよね。(疑問点について明らかにする質問はこの限りではありません)セリフには、こういう権利みたいなものがあるわけです。「キミにそれを言う権利はない」みたいなことです。
たとえば、病院にかかって、
患者さん 咳と鼻水が出ます
医者 (診察して)かぜでしょうね
これ、前半が患者さんで、後半が医者ですよね。まさか逆じゃないですよね。自分の症状については症状の持ち主が語る、診察結果については医者が語る。そういう役割ですし、また、たとえば症状について、患者さん自身のほうが医者よりよくわかっているわけです。患者さんが自分の症状だけじゃなく診断まで語って医者を怒らせるというのも、医者が患者さんの症状を決めつけて患者さんが困るというのも、よくあるコミュニケーショントラブルです。
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さらには、返事には望ましい返事というものが存在します。たとえば提案には受諾のほうが望ましい。自画自賛に対しては肯定が望ましく、称賛に対しては謙遜が望ましい。称賛に対して謙遜が望ましいのは日本だからかしら。ラテン系の国々では感謝のほうが望ましいかもしれません。つまり、文化によって絶対ではない。
昼ごはんを食べに行こうよ
行きません
やばいですよね。関係悪化必至です。提案には、ほんらいは受諾が望ましい。「でも行けないのに」そうですね。事実を曲げるわけにはいかない。
昼ごはんを食べに行こうよ
行きたいんだけど、いまちょっと忙しくって
ほんとかどうかはさておきこんなふうに答えておけば壊滅的なトラブルは避けられそうです。まず、「行きたいんだけど」で受諾の意志を示す(=受諾みたいなもんです)。そのうえで、「忙しくって」と、(拒否の)理由を示す。実を言うと、拒否のことばそのものは述べられていません。これは望ましくない応答として省略されています。
彼ってかっこいいよね
そだね、とはいっても、わたしは誰々のほうが好みだなあ
ほんとうにその彼についてかっこいいと思っているかどうかはさておき、というかぜんぜんそうは思わないとして、です。
ひとまず「そだね」で肯定の意を示しています。そのあとに、その彼がかっこいいという件は否定せずに(ほんとうは、ぜんぜんかっこよくないとか思っていてもですよ、言わないことは罪には問われませんから)、自分の好みについて語る。こうすることで、その彼がかっこいいという意見について普遍的に否定するわけじゃなくて、自分の好みという狭い範囲でだけ、その彼を下げずにその彼より上にいる誰々を示すことで、その彼がいちばんというわけでもないよね、とほんのちょっとだけ否定を表明するわけです。
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こういう、期待される応答につとめる、そういうわけにもいかないときにはそのままではなくていろいろ前置きとか言い訳とかあいまいさとかを駆使してその「失礼さ」を和らげる、そういうのが多数派のコミュニケーションなのだそうです。
なんかすごく不自由に思えます。たぶん実際不自由だと思います。でもこれが、「空気」の正体の一部なのでしょうね。
望ましいふるまいについては他にも理論があるようなので、それはまた次回以降で。