努力ではなく工夫、というのはどういうことかというと。
昨日のツイート。いまできていないことがあるとして、どうするか。「がんばります」が答えになることってめったにないように思うんですよね。
「がんばります」「努力します」という発言に対しては、「もう十分努力してると思うから、これ以上の努力はせずに工夫とかで乗り切るっていう方針はいかがでしょう? 工夫についての相談ならいくらでも乗りますよ」とかよく言う。誰だって、それぞれの限界に照らせば、すでに十分頑張ってるもの。
— あずさ@ASD/INTJ (@asph29) 2020年2月11日
努力するなという意味か、と思う人がいそうなんですけれど、必ずしもそうでもありません。たとえば、わたしが「ASDについてもうちょっと勉強したいけどできてない」としましょうか(事実に近い)。
- 勉強時間の確保。早朝から起きていることが多いので早朝かしら?
- 優先順位の検討。いま読んでる精神分析の本はとりあえず保留にする?
- 勉強方法を変える。読むだけではダメならノートをとる?
- 勉強の対象を再検討。その本、難しすぎない?
- 達成感を得る。読むべき本をリストアップして、読んだらそのリストにシールでも貼る?
…などなど。やるなとは言ってません。ただ、勉強するにしても、時間を捻出したり方法を変えたりして、「可能な」努力、「結果が出せる」努力に変更する必要はあるように思います。工夫も含めて努力だろうという言い方もありそうですけれど、岡目八目っていうじゃないですか。なかなか、切羽詰まっていると自分では工夫しづらいです。
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小学生あずさが、「さかあがりができるようになりたい」としましょう。過去のいきさつから、無理、と判明しています。この場合、そのさかあがりは何が目的なのか、ということが問題になります。
- 体育の先生に気に入られたい → 別の何かをがんばりましょう
- 体育についての劣等感をなんとかしたい → 別の何かをがんばりましょう
- できるまでやれって言われました! → 無理なので交渉しましょう
本人が「無理」とだけいうとおおごとになりかねないので、第三者(保護者とかかな)から学校に伝えてもらうのがよいかもしれません。発達障害というか協調運動障害についての説明が添付されているとなおよし、ですね。
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ドリルを買いに来た客が本当にほしいと思っているのはドリルじゃなく壁の穴だ、という有名な話がありますよね。努力できるように工夫する、でうまくいかなければ「結局、何が問題/目的なのか」を再検討して、全く別の方法をとる必要があるかもしれません。家事が終わらない、であれば、こどもにお小遣いをあげて(買収?給料?)手伝わせるだとか、ご飯さえ炊けばあとはお惣菜を買っていいというルールにしてしまうとか、ヘルパーさんを頼むとか、いろいろあるわけです。洗濯は3日に1回! とかもいいですね。
ようするに、「何が」問題か、なんですよ。