ワーキングメモリのはたらき(2)

以前、ワーキングメモリについて書きました。その後、主に診療において、いろいろ考えることがありました。

作動「記憶」とかいうんですけどね。「記憶」というイメージとは、少しずれるように思うんです。

 

ワーキングメモリがすごく低い人の場合。たとえば病院で、「この規則は困ります」と申し出たとしましょう。

患者さん「この規則は困ります」

医師 「しかしこのような事情があって、必要な規則なんですよ」

患者さん「なるほど」

医師 (わかってくれた、よかったよかった)

患者さん「この規則は困ります」

医師 「こういう事情であると説明しましたよね?」

患者さん「はい、覚えています。理解しました」

医師 「そういうわけで、必要な規則です」

患者さん「この規則は困ります」

医師 (記憶はしているようだ、しかし、わかってくれない……)

極端な例ですよ、もちろん。

 

これね、「一回に一つの話題」しか、頭に入らなくて、だから起きているようなのです。

「この規則は困ります」だけ頭にある

 → 「こういう事情です」だけ頭にあり、「この規則は困ります」は頭から一時退場

 → 「この規則は困ります」だけ頭にあり、「こういう事情です」は頭から一時退場

というわけです。

記憶の問題ではないんです。記憶はしている。しかし、「こういう事情の規則なんです」と「この規則は困る」が、同時には頭の中に入れておけない。

 

一つの話題を終わらせてから次に行く、を徹底すると、わかってもらいやすいようです。

 

 

ワーキングメモリが非常に低いと、たとえば、「比較」において問題が発生します。

Aがいいかな、Bがいいかな?

って、AとBの両方を考える必要がありますよね。

Aを取るべきだろうか? であれば、考えることができる。しかし、AとBを同時に考えることが難しいため、両方を頭の中だけで考えるのは困難です。

 

紙に書くと事態はかなり改善します。

しかし、文章だと、Aについて読んでいるときにはBが頭から一時退場、Bを読んでいるときにはAが頭から一時退場、となりやすいので、どうも、図のほうがよいようです。とはいっても図を描くのはなかなか難しいことが多く、毎回悩みます。

 

 

いわゆる「あたまがいい」人って、ワーキングメモリが高いんですよね。

 

とはいっても、そんな長い演説を聴く機会もないし、10個や20個をいっぺんに比較するという事態は、日常生活では発生しづらい。じゃあ、何に役立っているのか。

 

どうも、「アイディアを出す」ところにかかわっているようなのです。

 

たとえば、数学の図形問題で、補助線を引く場合。

過去に解いた問題を参考に、補助線を引いたりしますよね。「そこに補助線を引くと思いつくことができれば解けるのはわかるけど、そんなの思いつきません」と思った経験は、多くの人にあると思います。わたしだけじゃないはず。

で、この補助線、「あたまがいい」人は、あっさり引ける。

補助線というのはいろいろなパターンがあるので、頭の中を検索したり、検索して出てきたものを試してみたり、という試行錯誤が必要になります。ワーキングメモリが高い人は、この「検索」範囲が広いようなのです。「なぜそんなこと思いつくの? って、たしかにそこに線を引くのがベストよね」ってことが起きる。言われてみれば、わかる。

 

ワーキングメモリは、「頭の中のテーブル」に例えられることが多くて、「低い場合にどう困るかはわからなくもないけど、高い場合って?」と、疑問でした。

テーブルがすごく広ければ、載っているものの種類は増えます。いいかえると、テーブルが広ければ、現在の問題と関連性の低い話題もテーブルに乗っている可能性が高く、試行錯誤に含めることができる話題の範囲が広い。「正しい」というか、「なるほど、そうきたか!」という解決にたどり着く可能性、高そうですよね。

で、解決を教えられれば、頭の中に入ってはいる、つまり記憶している範囲の中から、その解決法に注目するので、自分の(狭い)テーブルでも、その解決法を乗せることくらいはできる、ってわけです。

 

 

「あたまのいいひとって、ワーキングメモリが高い気がする」とずっと思っていて、「でも、ワーキングメモリが高いってどういうこと?」と実はずっと疑問でした。わたしが不勉強なだけだとは思うんですけど、どうもうまい説明が思いつかなくて。

 

やっと、イメージできたように思います。