自分の中の他人の目について。

「離見の見」という言葉があります。演劇などで、観客の目で自分を見ましょう、という意味です。自分が観客であったら、いま舞台にいる自分はどう見えるか。それを意識しながら演じましょう、ということですね。

 

これね。定型の人であれば、普段からある程度はできていることだと思うのです。演技に集中すると忘れてしまうかもしれませんけれど、普段からやっていることではある。

それに対して、ASDのわたしの場合、よほど集中しないと頭から抜けます。というか、そんなこと、思いつきもしない。他人から見て自分はどう映るだろうか、と、言語的に問いを設定してはじめて、意識することができる。常時見ていることはできない。医師は患者さんから見られていますから、患者さんからどう見えているかを意識したほうがいいとは思うのですけれど、でも、それができない。いや、意識すればできるのですけれど、それでは仕事にならない。普段仕事に向けている注意・集中力を総動員しないと、他人の目から自分がどう映るか、想像することさえできないわけです。

 

…… わたしは昔から、身なりを整えることが極端に苦手です。小学校6年生のとき、カーディガンを裏返しに着ていて、たまたまうちに来ていた祖母を大いに嘆かせました。なぜ気づかないのか、って。どうしたら気づけるんだろう、と、不思議でしたけれど、よけい嘆かせそうなので、聞きませんでした。

これも、面倒くさがりだとか触覚過敏とかである程度は説明がつくとはいえ、他人からどう見えるか意識できないため、身なりの重要性が頭では理解できても実感として身についていない、というのが、ひとつの答えになりそうな気がしています。

 

自分と他人を比べることも、できていない気がします。比べようとすることはあるんです。自分と他人を比べないという、道徳的に? 正しい境地にたどり着いたという意味ではありません。比べようとはする。そして、どうにも不正確な結論にたどりつく。毎回間違うんならやめたらいいのに、と、しみじみ思います。最近、あんまり比べなくなりました。だって、比べるのが絶望的に下手なんですもの。

これもね、自分を見ている他人の目があれば、他人と他人を比べるのと同様に、自分と他人を比べることはできるはず、ということなのかなと。自分を見ている他人の目がないと、自分から見た自分と自分から見た他人という、そもそも基準点が違う比較となってしまうので、上手に比べられないのは当然なのかもしれません。