感情労働が感情労働でありえるかどうか。

感情労働、ということばがあります。Wikiによれば、「感情が労働内容の不可欠な要素であり、かつ適切・不適切な感情がルール化されている労働のこと」とのことです。

たとえば、相手が、たんに機嫌が悪くて怒っていて、やつあたりをしてきたとしても、礼儀正しく、相手の言い分をよく聞いて、たとえば的確なアドバイスを与えるなど、よいサービスをする、みたいなことです。

もちろん、内面はさておき礼儀正しい言葉遣いをする、とかでも対応可能ではあるんですけど、敏感な人には見透かされたりします。なので、そもそもの感情をコントロールして、たとえば怒っていない状態を作り出して対応する。

この、感情のコントロールって疲れるよね、というのが、よのなかの常識? です。まあ、疲れるだろうなあ、と、わたしも思います。

 

 

精神科医という仕事も、たぶん、感情労働を含みます。

相手が理不尽に怒ることもありますし、幻覚妄想に基づいてこちらを攻撃することもあります。そもそもが「精神状態のわるい人」の来るところです。

 

 

わたし、「感情労働」で、ダメージを受けづらいらしいんですよね。

相手が理不尽に怒っているときに、相手の言い分をよく聞いて、冷静に的確(……と信じたい)なアドバイスをする、とかは得意だし日々やってる、よって「感情労働」に従事していると主張したいんですけど、でも、ダメージは受けない。説得が大変だったりして、頭を使うことはありますけど、「感情」労働ぶんのプラスがないわけです。

 

これね、たぶん、ASD的「共感」の話だと思うんです。

わたしの場合、相手の事情と考えのすじみちをトレースして、「そりゃあつらかったでしょう」としみじみ追体験することはできるんですけど、でも、自動的に感情が動くことはありません。専門的には、前者を「社会的共感」として、いわゆる共感(相手の感情に反応して自動的に感情が動く)から区別することがあります。社会的共感においても、感情は動いているんですけど、ただそれは、自分で、理解とかトレースとか想像とかの作業を行って、追体験した結果、感情が動いているわけです。自動的には動きません。

ということは、わたしの場合、自動的に発生した共感(相手の感情に引きずられる)を抑えるというステップが存在しない。さらには、理解とかトレースとか想像とか追体験とか、職業上習慣化しているとはいっても、自分でわざわざやっていることですから、本気でスイッチを切ろうと思えば切れます。こうなると、感情はほぼまったく動きません。

 

 

感情労働が成立しないことは、この仕事にとって、よいことも悪いこともあろうと思います。ただ、怒ったり不安になったりしている人は、往々にして、冷静に自分の言い分を聞いてくれるひとを目の前にすると落ち着くものですから、まあ、悪いことばかりでもないはずだ、と考えています。