共感の代わりになりうるものについて。

相手の感情に反射的に応答する「共感」は、わたしには無理です。たぶん、一生無理だと思います。じゃあ、相手の感情に応答することが100%無理なのか。100%無理ってほどでもないんじゃないかなあ、というのがわたしの希望的観測です。磨ける技術を磨けばいい。

 

 

わたしにとってわかりやすいのは、(精神科の)診察場面です。相手が一人でかつ集中しやすい、相手の状態によって望ましい態度がおおむね決まっている、これらの条件はすべて、わたしにとってはプラスに働きます。

 

まず、相手の話をトレースする。トレースというのはなんていうか、行間を含めてストーリーとして聴くみたいなことです。これまで読んだ小説などから、「こういうときにはたぶん悲しい」「こういうときにはたぶん嬉しい」という推測も組み立ててありますので、これで感情のあたりをつけます。一段落したところで、その推測を本人に告げ当たっているかどうか確認します。たまに外れますけれども、訂正してもらうことができればオッケーかと思います。

 

そのさいに、相手を観察しています。実はこっちが大事だと思っています。診察室のドアを開けるまでの足音だけでもわかることは多いです。足を引きずっているかどうか、ドアはどのくらい勢いよく開けるか、開けたドアを(いくら勝手に閉まるからといってもですよ)気にかけるか、気にかけるとしても振り返るかどうか。その際に、わたしの存在を認めてからドアを気にかけるか、まずドアか。歩調が、ドアを開ける前と変わるかどうか。どのくらいゆっくり椅子に座るか。椅子に座る前にわたしに会釈するかどうか。着席する前に、すでにいろいろわかります。

 

患者さんが話しはじめて、まあ、表情は意識的にコントロールできるとしても、筋肉の緊張は普通コントロールできないので、そっちを観察していれば、作り笑いでなんとか場をもたせようとしている(わたしに対してだけじゃなく、自分に言い聞かせようとsていることも多いです)とか、いろいろわかります。口調というか、声の高さや抑揚、スピードでわかることもたくさんあります。

 

こういう「観察」を加味した推測を患者さんに告げるとギョッとされることが多いです。なぜわかったのですか、って、見ればわかります、としか。

 

 

こういう観察は、精神科医のトレーニングに含まれています。ですから、ASDだからできるとかそういうものではありません。定型のひとがわたしより上手で緻密なこともあるでしょう。とはいっても、反射的な共感は磨けないいっぽうで、観察の精度およびその分析であれば、ASDのわたしにも、トレーニング効果は上がると思うのです。かりに、ASDのわたしにとっては上達が非常に遅くなりうるとしても、共感を磨こうとするよりはずっとマシです。共感はたぶん、トレーニングできない。どんなに非効率でも、観察を磨くほうがぜったい楽です。

 

ちなみにこれは、非言語的コミュニケーションとは違います。非言語的なメッセージを読み取っているわけではありません。状態を観察して解釈しているだけです。これで「やり取り」しているわけではぜんぜんない。

 

 

集中できる状況も必要だし何より意識的にスイッチを入れる必要がありますので、たとえば「診察室でできることがプライベートでできないというのはどういうことだ」と怒られたりもするんですけれど、それはそれとして、「可能ではある」。そして、場面によるとはいえ、欠落している共感を、100%じゃないにせよ、補うことはできる。

 

「観察」はわたしの職業に直結しておりしかも職業的トレーニングに含まれていたので、意識的に訓練することは容易でした。そういう、わたしにも伸ばせる技術で、「どんなに努力してもたぶん身につかないいろいろ」を、補っていくという手段は、他にもあるだろうと思います。