責任を引き受けるのは当然という美意識のこと。

わたし、忖度ということばを目にするたびにイライラします。

これ、ふと思ったんですけど、ASDの(全員じゃないだろうけど)患者さんたちが病棟のルールに納得できないとき、たとえば「それはわたしが決めることで、わたしはそれを許可しない。だからダメです」と言うと納得を得られたりすることと同じような話ではないでしょうか。責任の所在を明確にする、ということです。

責任者出てこい、じゃないんです。出てくるだけではどうにもならない。だれがそれを決めているのか、宣言しているのか。それが明らかにならないのはものすごく居心地が悪いのです。(古いルールでそれは誰にも変えられない、でもオッケーです)ADHDに関してですけれど、謎の「騎士道精神」と表現した人がいました。言い得て妙。いい感じです。今後使おうかしら。

いつだったか、「なぜそこまですべてをきちんと引き受けるのか」と言われたことがあります。わりと自分には甘い自覚があるので、驚きました。いま思うにそれは、責任を引き受ける、他人のせいにしない、ということだったのかなと思います。それは、すべてを自分のせいにするという意味ではありません。それこそ自分の責任で、その件が自分のせいかどうかを検討して、自分のせいであると判断したことについては他人のせいにはしないという意味です。わりと厳密に自分のせいかどうかを確認するので、その判断が(一部であっても)他人のせいと言い切ったということで、違和感を持たれることはあるような気がします。

たとえば、です。前の病院で、わたしを嫌っている看護師さんが、「他の先生方はこうやっている(だからあずさもそうすべきだ)」と言ってきたことがありました。「他の先生が何をやっていようと、この患者さんの治療に関して責任があるのはわたしだし、わたしが正しいと思えば他の先生方と同じことをする。わたしが正しいと思わなければ他の先生方のやり方は採用しない。この患者さんの主治医はわたしですし、この患者さんがよくなるかどうかについて責任があるのはわたしです。よってわたしは、他の先生のやり方についても自分の責任で採否を判断します」と返事をしたところ、「あずさは傲慢で頑固だ」という評判を広められて後日結構困りました。傲慢で頑固? 他の医者になんとなく合わせるのは無責任でしょう? 自分の患者さんに? なんと言われようとそんなの無理! というわけでわたしは、その看護師さんの発言に関しては「主治医に対して無責任になれという指示を出した」と判断し、彼女の言うことはその後90%割り引いて聞くことにしました。(それでも「そのときだけは」正しいことを言うかもしれないということで10%は留保しました)

それにしても、です。この看護師さんの考え方がいくら曲がっているとはいっても、それなりにキャリアのある方でしたから、たぶん、「他の先生方はこうやっている(だからあなたもそうすべきだ)」と言ってそれが通ったという経験があっての発言だったのでしょう。そうかそれで丸く収まったことがあるということなのか、と気づいたときにはかなり衝撃を受けました。なんてこった。

わたし自身にとってはあまりにあたりまえなので、長い間言語化はしていなかったのです。でも数十年生きているうちに「全員が、自分の責任は当然自分がとる、と考えているわけではないらしい」ということに気づいたのでした。えっ、それでいいの? それで自分や他人を許せるの? 不思議でなりません。いまでも。

ASD全員じゃないと思うけど、でも、上記の通りそういう感覚を持ったASD傾向の患者さんはときどきいますし、ASDと何か関連がありそうな気がします。ひょっとしたら、その「責任があいまい」が多数派の特徴なのかもしれません。もうちょっと検討が必要です。