わたしは正しい、正確だ、の問題点について。
ASDの人は無礼だとかなんとか言われることがあります。わたし、ASDですとカミングアウトして、「そうかキミは失礼な言動をするやつなんだね」という反応をされたことが何度もあります。何も言ってないうちに、です。
偏見だ! というのはそうなんですけど。その偏見って、どういうわけで形成されたんだろうなと。「敬語は完璧だからよけいに腹が立つ」と言われたこともありますから、通常の礼儀作法のことではないようです。
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「正しいからと言って何を言ってもいいわけではない」「それは正論ではある、しかし、いま言うな」みたいなことを言われたことがあります。何度もあります。
正しいことを言ってはいけないとはどういうことだ、と、当然ながら?反発しました。
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これはASD的に、ですけどね、と前置きした上で。
正しいことを言ってはいけない、というわけではないように思うんです。
ただね。
何をしたいんだ、ということ。
正しいことを言うことそのものが目的なのかということ。
それが、問題なのかなと。
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ほっといたら自分がその件について賛成だと思われる、それは困る! というときってあるじゃないですか。たとえば。こういうときには、賛成じゃない旨表明することそのものが目的になります。そのまま言っていい。怒られるかもしれないけど、それは言わないと、望まぬ事態を引き起こしかねません。
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そういう状況ばかりではありません。
たとえばね、提出されたレポートが、評価基準に満たない。これはひどい。この子は勉強が足りない、この本は読むべきである。そう思ったとして、じっさいそうだったとして、それを言っていいのかな、って。
言っていいときもあるんですよ。
でも、たとえば勉強が足りないなあとそもそも自覚しているひとにわざわざ「勉強が足りない」と言わなくていい。それは気の毒です。そのひとをはげましたいならなおのことです。
また、その本が1000ページあるときに、それを読めって現実的なのかな、という問題もあります。いずれは読まないといけないかもしれないけど、明日までに読んでこいとかさすがに無理です。わたしならたぶんあきらめて、1ページも読みません。どの章が有益なのかくらいは指定してあげると親切かもしれないし、その部分だけならあきらめずに読んでくれるかもしれませんよね。その部分に感銘を受けて、後日全部読むかもしれません。
結局どうしたいのか、ですよね。
その本を読んでほしい? 読んで、どうしてほしい? たとえばレポートに役立ててほしいとして、レポートに役立てるってどういうこと? 読めばいいの? 読めるの? 読んだらそのレポートの問題点がわかるはずだ、って、そうかもしれないけど、問題点を指摘するだけじゃだめなの? まず問題点を指摘して、それからその本を読め、と指示する、じゃだめなの? 勉強不足を痛感して今後おおいに勉強しなさい、というメッセージは、キミは勉強が足りない、というコメントで十分に伝わるの? 論点はいろいろあります。
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そこまでわかっていつつ、わたしも、たとえば相手の能力とか、勉強するやる気とか、ほんとにしばしば見誤るので、じつはぜんぜん、えらそうなことは言えないんです。そのへんがASDなのかしら。
とはいえ、 目的を意識したら多少はマシになったような気がする(仕事柄もあります)ので、「結局何をどうしたいのか」というのは、わりとおすすめな考えかたではあります。ひょっとしたらASDに限らず、でしょうか?