やればできる、といいな、とか。

やればできる、というのは、わたしにとっては残酷なことばです。やってもできないことが、とても多いのです。しかも、「まさか」と言われるようなことが、いくらやってもできない。できない、と信じてもらえないものだから、明るく励まされたり努力をうながされたり、最終的にはやる気や興味関心を疑われたり責められたりするわけです。

 

 

業務に関連するところでは、点滴の針を刺す(ルートをとる、といいます)ことでしょうか。絶望的に下手です。人形でも練習しましたし、研修医のときにはある程度やってたんですよ。できるようになりたかった。決してどうでもいいとか思わなかった。でも、もうね、自分で自分に腹が立つほど上達しない。そして、数年たった今、正直不可能です。なけなしの技術も完全に失われている。医者失格? そうですか、以外に返答のしようがありません。

「努力すればいいんだよ、回数を増やしなさい」そう思うでしょう。でも、たとえば普通の人が10回練習して到達する境地に、わたしが1000回やったら到達できるとして、わたしはその間に他の業務はできるのでしょうか。あるいは、同じ頻度で練習するとして、何年かかるのでしょうか。そしてほんとうに1000回やるとして、だいたい30回くらいやったところで(3%)怒られます。やる気があるのかと。真面目にやれと。真面目にやっていたらとっくの昔にできるようになっているはずだと。

しかも、その間に、わたしの下手なルート取りで、何人もの患者さんに迷惑をかけるわけですよね。それって、本当にただしいのでしょうか。あまりに犠牲が多いのではないでしょうか。だったら上達しろ、わかるけど、わかるんだけど。
そして、かりに1000回なんとかやりとげてできるようになったとして、この動作が定着する可能性は低いです。忘れるのがとても早い。長く努力したことは長く残るなんて嘘です。わたしにとっては。


やればできるはずなのだから真面目にやれ、という批判だけはやめてください。ほんと泣けます。

 

さかあがりをはじめ、似たような経験は数知れずあります。さかあがりも、できなさすぎてほぼトラウマです。半年くらい、すべての休み時間と放課後を逆上がりの練習に費やしてそれでもできない。同級生が親身にアドバイスしてくれる、しかしまったく上達しない。最終的には周りも、「なぜだかまったくわからないがあずさにはどうやったってできないのだ」ということを理解してくれたので、できないことについては許してもらえました。

 

 

やってもできない、は慣れています。しかし、それを信じてもらえないのはきついです。慣れることができません。真面目にやっているのか、軽んじているからできないのではないか、自分の仕事ではないと思っているだろう、などなど。業務に手を抜いたことはないのですけれど。
でも信じない側の人たちの言うことも理解はできます。想定外のことは想定外。想像の範囲というのはその人ごとにあって、そこからはずれたものの存在を認めるのはとても難しい。学習障害の人の苦労もそうでしょう。知能は正常で受け答えも問題ない、それなのに一桁の足し算でも混乱するとか、やはり、「まさか」と思われがちでしょう。ここでポイントなのは「知能は正常なのに」というところです。知的障害の人がその障害の一環として算数ができないことはわたしたちの想像の範囲、しかし、知的障害ではないのに一桁の足し算で混乱するのは想像の範囲外。
やればできる、と無邪気に発言するひとは、自分および周りが、やればできるという想像の範囲を同じくしていて、その範囲で生きているのでしょう。それが悪いといいたいのでは決してありません。たんに、そうだったら楽だろうなと思うだけです。

 

 

糖尿病に似ているかもしれません。糖尿病にかかりやすい体質というのは実在します。その人たちは、とくに不摂生をしなくても、よほど気をつけないと糖尿病にかかってしまう。彼彼女の糖尿病について、生活習慣病であるから不摂生をしたのだろう、暴飲暴食運動不足だ、と責めるのは明らかに間違っていますよね。でも、その体質についての理解がないと、本人すら自分を責めてしまいます。

 

 

やってもできないことはやってもできないのでそれを努力するのは否定はしないけどたぶん実を結ばないか業務に支障をきたすかですから、「信用を稼ぐ」という方針です。「できないというのは信じがたいが彼女はふだん業務に真面目に取り組んでいるし、他人がいやがりそうなことでも気軽に引き受けたりするし、彼女の言うことはほんとうなんだろう、ほんとうじゃなかったとしてもそれについては彼女に強要するのはやめよう」という漠然とした信頼を得るということですね。さいわいたとえば文章を作るのは得意ですから、書類を率先して引き受けるとか。

こどものころ、天才にはあこがれつつも、「できないことがない」にも同じくらいあこがれてました。できないことをなくそうと、20代くらいまではいろいろ努力したんですけれど、どれもこれも無駄でしたね。無駄だとわかっただけよかったんだろう、ということにしてあります。自分で自分を責めることをしなくなったというだけでも。

能力の凸凹って、(凸が何かはさておき)そういうことかなと思うのです。