バレンタインデーのチョコレートの扱いとASDと定型のおはなし。

もうすぐバレンタインデーですね。

さて。(日本の)バレンタインデーといえばチョコレート。お菓子の会社の陰謀だという話もありますけれども、それにとどまらないいろいろがありうる行事ではあります。

 

 

これね。2種類ありますよね。多少古いかもしれませんけれど。
1)いわゆる本命チョコ。この言い方あんまり好きじゃないけど。まあ、要するに、「あなたが好きです」的な意味で贈るチョコレートですね。そういえば、妻から夫へだと、たとえ相手が唯一絶対の相手であってもあんまり本命チョコっていいません。非日常感のあることばなのかしら。
2)いわゆる義理チョコ。これってしばしば、職場ルールで配ることになっていたりしますよね。女性社員がお金を出し合って、男性社員の人数分のチョコレートを代表が買いに行く、みたいな感じです。

そして、(1)の本命チョコの場合、小学生はわからないけど、大人の場合は、なかなか「チョコレートだけ」ってわけでもないですよね。どうだろう、手紙とかカードを入れてみたりプレゼントを添えてみたり(いや、プレゼントにチョコレートを添えるのか?)、デートを計画してみたり。もうちょっというと、ほんとうは「チョコレートを贈る」ことは目的じゃない。伝えたいことは明らかに別にあって、でもまあ、バレンタインデーだし、チョコレートは添えておきましょう、みたいな感じです。
(2)の義理チョコの場合、もちろん、平素よりたいへんお世話になっております、という意味もある場合はありましょうけれど、女性社員代表が男性社員人数分のチョコレートを買ってきている時点で、少なくとも個別の男性社員への気持ちは込められてなさそうですよね。どっちかというと、「今年もチョコレートは贈った、季節行事は実行した、義理は果たした」という感じではないでしょうか。ま、そういう日だから、そういうことになってるから、そうだね、って。

誤解することも可能で、本命チョコを義理チョコと誤解するのは悲劇に、義理チョコを本命チョコと誤解するのは喜劇につながりかねません。

 

 

何が言いたいかというと。これ、定型とASDにおける、あいさつのあつかいに似ていませんか、と思うのです。

本命チョコ(定型)チョコレートを贈るという行為は何かを伝える手段であって、その「何か」が重要
義理チョコ(ASD)チョコレートを贈るという行為はルールに沿った行動であって、その「行為そのもの」が重要

(定型からASDへ)せっかく込めた気持ちを無視するな?
ASDから定型へ)込めてない気持ちを読み取られても困る? 

まあ、バレンタインデーのチョコレートも、あいさつの一種ですからね。

 

 

ただね、本命チョコと義理チョコというと、本命チョコのほうが偉い感じもしますけれども、義理チョコを配っているひとに愛情が金輪際欠けているかというとそんなわけでもないですよね。バレンタインデーにはとくに何も考えず義理チョコだけわたしといた、あるいはそもそもチョコレートとかすっかり忘れていたとして、それはそれとして後日何かしらプレゼントを贈ったりデートを計画したりするかもしれないわけです。本命チョコとして豪華なチョコレートを贈らなかったといって、即断は禁物。


そういえば義理チョコを廃止した企業もあるようですね。英断だと思うのは、わたしがASDだからでしょうか。