コミュニケーション能力とASD。

HGウェルズに「盲人国」という小説があります。その国の人は、全員目が見えません。そこに、目が見える人が迷い込みます。目が見える側が有利かというと、ぜんぜんそんなことはない。何をするにしても助けが必要です。

 

 

ものすごく高性能でかっこいい義足が普及して、自分の足で歩いている人が「障害者」扱いになる未来とか、空想したりします。

 

 

コミュニケーション能力が重視される世の中であるといいます。それで苦労しているASDの人も多いです。

しかしよく考えると、その「コミュニケーション能力」は、「定型発達の人の間のコミュニケーション能力」ではないでしょうか。もしも「人類全てに対するコミュニケーション能力」であれば、ASDの人が苦労するはずはありません。

ということは、この「コミュニケーション能力」は、絶対のものではない。人類普遍の価値は持たないわけです。

 

 

もしもASDが多数派の社会であれば、ASD的コミュニケーション能力が評価されるでしょう。言葉の裏は読まないとか、空気はそもそも存在せず、空気を読めと強要するなんてことはありえないとか。

ASDが多数派の社会であっても「コミュニケーション能力」は評価されるかもしれません。しかしそれは、現在の日本でもてはやされているコミュニケーション能力とは、まったく異なるもののはずです。

 

 

現実にはASDは少数派で、定型発達的コミュニケーション能力がもてはやされている。

そうなんですけどね。でもそれは、人類普遍の絶対的価値ではない。そう思っていたほうが、わたしは気が軽いですし、実際そう思って生活しています。