支援する側の事情を想像する。

理由と根拠を明確に、手順を具体的に教えてもらえば「できる」ことが増えるASDの人は、わたしを含めてそれなりの数いると思います。

サンドイッチ作っといて

では混乱するとしても、

たまごサンドを2個作っといて、レシピはここにあるよ

であれば、上手にできたりするわけです。

 

この例では問題にならないことで、複雑な事柄になると問題になるのは、「定型発達の人の側が、理由と根拠を明確に、手順を具体的に言語化することに慣れていない」です。適当かつあいまいな指示で動いているのは、「そうとしか言語化できない」ことが一因なのだと推測しているのです。

だって、あいまいな指示がとんでくるのは、「定型発達同士ならそれでなんとかなる」からで、なんとかなることを努力する人は少ないですし、努力すれば上達し努力しなければ上達しないのは自明です。空気? でやりとりできるのであれば、言語化が苦手でも仕方がないと思うのです。

 

 

できないならできないで、それはかまいません

そのように言うASDの人は多いんですけどね。自分自身できなくてそのせいで責められてつらかった記憶がいろいろあるから、「できない」ことについて他人を責める意図はない。

しかし、定型発達の人には、「自分ができないと気づくと、認める代わりに怒り出す」人がときどきいます。ひょっとしたら「できない」とはっきりとは気づいていないのかもしれません。よくわかりません。怒る人はいます。

わたしなんかは、無駄に素直なので、相手が怒っていると自分が悪いことをしたのかなと思って原因を探し始めて、何かしら細かいことを見つけて(あいさつの仕方がわるかったかしら、とか)、間違った解釈をしてしまったりします。

 

 

わたしは「療育」の世界に住んでいるわけではありません。そうはいっても、ASDへの接し方の本には、「ASDに必要なことが、定型発達の人には負担なだけでなく不可能なケースもある」という内容は書いていないことが多いように思います。書いてあっても、扱いは小さい。

ASDは支援される側、定型発達は支援する側だからかしら。そこになんとなく上下関係が透けて見える気がするのは、わたしがひねくれているからでしょうか。

 

 

で、ASDの側が説明を必要としていて定型発達の側が説明できない、の解決策は何なのでしょう。ひとつは、補助ツールかなあ、と思ったりします。最近は素敵なマニュアルとかあるじゃないですか。そういうの。

ただ。ツールが世の中に存在しても、それを使わないと事態は改善しません。補助ツールを使う前提は、「これがないと困る」です。できないことをうっすらとでも認めることって、やっぱり必要です。怒らないでほしいです(個人的希望)。怒らなくてもものごとは解決できます。

 

言語能力が高いASDはそういう場面で役立ちやすいようにも思います。わたしに「できること」があるとすれば、そういうことなのかな、とも考えています。