自分的常識とか自分的前提とか。

自分的常識とか自分的前提とかときどき言います。「自分的」なものであると気づいたのは数年前で、それまでは人類にとって普遍的な常識あるいは前提だと思っていました。思うどころじゃありません。そこにコップがある、足元に地面がある、というレベルの「当然」であり、問い直すこともなく、そもそも、問いが浮かばない、みたいな感じです。

 

イメージとしては、「世界のつっかえ棒」「世界の柱」です。わたしにとって、ですよ。

 

 

たとえば、「ひとはだれでも(!)自分の仕事に誇りを持ち、自分の仕事についてできる限りの努力をしている」というものがあります。いまはさすがに、そういうわけでもない人が存在するということは知っています。しかし、数年前までは、これは完全に「自分的常識」でした。

独善的、なのでしょうね。ただ、通常言われるところの「独善的」とは、ニュアンスが違うようにも思います。他人の存在を意識しつつ自分の意見を正しいとして通すことと、他人が存在しない世界で生きていくためのルールを設定しそれが世界中で(自分の世界がすべてですから)当然適用されていると思い疑いもしないこと。たぶんそれは、似て非なるものではないでしょうか。

 

 

悪いことばかりではありません。

自分には当然適用されますから、わたしが自分の仕事に誇りを持ち自分の仕事についてできる限りの努力をする、これについては何の問題もないでしょう。また、他人に適用した場合、他人を責めることにはまずつながりません。仮にだれかがさぼっているのを目撃した場合、「何か事情があるのだろうな」ですし、仮にだれかが仕事において準備不足で失敗した場合でも、「何か事情があるあるいは能力が足らず努力が追いつかなかったのだろう」と推測しますので、その結果、「そのひとはできる限りの努力をしている」という前提は崩れず、よって、誰のことも責めはしません。

 

ただ、自分についても当然適用されているルールでありそれに則って生きていますので、これを(自分について)否定されるとわたしの世界がゆらぎます。世界全体に適用されているルールですから、わたしについて否定されたら、柱が崩れて世界が崩れてしまう。まさか、ですし、このもろさはほんとうに危険だとわたしも思います。しかし、わたしの世界はそういう性質を備えているわけです。今は多少は柔軟にはなりましたし、そこまで簡単に崩れはしませんけれど。

 

 

なぜこんな柱があるのか。

他人の存在がない(薄い)として、世界をキープするには、自分で自分の支柱を立てるしかなかったのではないかというイメージでいます。他人の存在は世界を支えうる、しかしそれがない場合、人工的な柱で代用するしかない。

そしてその柱は、わたしの場合、本で読んだり周りから教えられたり(こどものための、裏表のない、本音と建前の区別もない、教えですね)したことと自分の美意識あるいは真善美みたいなものを、自分なりに矛盾しないよう組み立てたもののように思います。

そして、わたしには、否定的な感情を受け取る能力がほぼ欠けているため、こういう「真善美」にかなう柱はまったく否定されずにただそれを強化する情報だけ受け取ったのではないかと。

 

わたしが、重度のASDであり知能がそれなりに高く、かつ、論理親和性が高すぎるゆえにこの柱がいやが上にも強化されたようにも思います。

 

 

現実からしばしば遊離しているのはいまはわかるんです。ただ、修正はこころみてはいるし多少は修正されたんですけれど、いまでもこの柱(自分的常識)は柱として機能していて、この自分的常識に反した行動をとったり、自分的常識を否定されたり、自分的常識に反した事態が起きていると認めるのは苦痛です。とくに、自分が自分的常識に反した行動をとったときには、ほとんど身体的な苦痛を感じます。

この「融通の効かなさ」は、たしかに扱いづらいんですけど、「まあ、正しいし、いいじゃん」という言い訳も用意されており、何より世界の支柱ですから、なかなか「柔軟に」というわけにいかないというのがわたしの現在です。