「なんで怒られたかわかる?」といわれましても。

「なんで怒られたかわかる?」

「わかりません」

…… いまなら、この問答はやばい、と気づくことができます。わたしも成長したものです。こどものころは、わかるかどうか聞かれてわからないと答えただけなのに怒られるのが非常に理不尽である、と感じていました。そして、さすがのわたしも、「わかりません」はまずいらしい、と学習したわけです。

 

「なんで怒られたかわかる?」

(間違った答え)

…… なぜかよけいに怒られるわけです。正しい? 答えに至るまでやり直し、なんてこともありました。ここで、どうしていいかわからなくなりました。毎回、答えが違うんですよね。前回と同じ答えを言うとよけい怒られる、みたいなことが続くのです。似たような場面でも、相手によって答えが違う。同じ相手でも、時と場合によって答えが違う。たぶん、わたしの「場合分け」が間違っていたんでしょうし、ほんらいは学習の手がかりはどこかにあったんだろうとは思うのですけれど、何をどのように整理して場合分けすれば「正しい」答えに行き着くのかがわからない。

正解とその理由を教えてくれれば、怒られる前に予防できるんだけどなあ、といつも思っていました。テスト勉強もそうですよね。間違った問題を、正解と解説を読んで勉強するでしょう。間違えた、という情報だけもらうより、正解と解説があったほうがずっと効率がいい。

そもそも、怒るって、今後同じようなことをやらないためじゃないのかなあ、とか。

 

 

これね、わたしが見た目「外国人」だったとしたら、言わないんじゃないかなあとか思うんです。人類普遍の真理であるからわかっているのが当然、というわけじゃないだろう、と。たぶんローカルルール。というか、たぶん、「その人の」怒った理由。

「その人の」怒った理由など推測するのは無理です、というと怒られるんですけど、ふだん「自己中心的」と非難されるわたし(ASD)としては、ますます納得いかないわけです。自己中心的なのはどっちだ。

 

 

診察場面で、とくにASDの患者さんが、「こないだ怒られたんですよね」という話をしたとします。

「こないだ怒られたんですよね」

「なんで怒られたかわかる?」

「わかんないですけど、今思い返すと、(推測)」

いろいろ学びの機会になったりします。「なんで怒られたかわかる?」というフレーズそのものが悪いわけじゃない。何を言っても怒られない場面であれば、ゆっくり分析もできるし、一般化して今後に役立てることもできる。(わたしもASDなので、「絶対」正しい分析ができているとは言いませんけれど、経験は多いし言語化能力も高いし、ディスカッション相手としてはそれなりに役立つ……はず)

たぶん、定型の人も同じだろうとも思うんです。間違った答えでも怒られないほうが楽。答えにたどり着けないときには、正解と解説を教えてもらったほうが今後のため。ASDのわたしだから、ってわけでもないんじゃないかな、とか。

どうでしょうね。