他人のいない世界の変貌について。

(厳密な意味での)他人のいない世界、他人がすべてNPCであり、自分がなにかしないかぎり自分と関係ない世界で自分と関係ない生活を営んでいるはずの世界に住んでいたという話をしました。その世界が多少なりとも変貌をとげたのが、10歳ごろであるとも。

ツイッターで見かけるかぎり、人によって時期は違うようですね。定型発達のひとたちでもものごころついてから起きることなのかな、違うような気がします。どうでしょう。そういうたずねかたをしたことがないので、確信は持てません。

 

ともあれ、わたしの話。

 

 

一番最初に、そして決定的に決裂したのが、父親との関係でした。それまでは非常に良好な関係だったんですよ。同じ行動で同じ反応を返す理想的なNPCでしたし、わたしのわからないことは理屈で説明してくれましたし。つねにわたしの味方でしたし。

 

しかし、です。これね、父親が、自分と娘(わたし)をまったく同じものとして見ていたからだったんですよね。コピーというより、自分の一部のほうが近いです。NPCの件は彼がASDだったからかもしれませんけれど。

典型的なエピソードとしては、たとえばわたしが転んでひざをすりむいて帰ったときに、大丈夫だの気の毒だの処置だのの前にまず怒られる、というものがあります。「親にもらった身体に傷をつけるのはなにごとだ!」というわけです。協調運動障害と近視のためよく転ぶこどもではありました。転んで一番に心配するのが、傷になっていないか、傷になっていたら怒られる、だったんですよね。そのくらい。病気しないこどもだったから、病気したらどうなってたかはよくわかりません。

これね、自分が怪我をしたのと同じリアクションであるとわたしは考えています。

テストで100点とかもそうです。喜んでくれました。しかしそれは、自分が100点をとったかのように、喜んでいたんですよね。三者面談とかにも現れて、娘の素晴らしさを演説する。居心地悪かったです。

 

でもこれ、今に至るまで、理解はされていません。「娘のことを大事に思っている自分」のままです。いやそれ、自分と娘を同じものとして見ているから、娘に起きたよいことで喜びわるいことで悲しむんだよ、とか。

わるいと言いたいわけじゃないです。彼の限界だとは思っています。

 

 

自分が膝をすりむいたときに怒るという、同じ行動に同じ行動で返すNPCである「だけ」のときはよかったんです。いつも同じ行動だから、むしろ安心できる。しかし、父親が自分のことをどう見ているかがうっすら見えたときに、怖くなったんですよね。「わたし、お父さんとは違う人間なんですけど!」って。

当時のわたしは、ここまで言語化できたわけではなく、ただ単に違和感があり、ただ単に怖かったので、わかりやすく離れようとしました。そして父親は混乱しました。毎日大喧嘩してました。双方、意味もわからず。

 

いまは、離れて暮らしています。そのほうが、お互いにとって平和なようです。