「なぜ」皿を割ったのか。

「なぜ皿を割ったのか!」

「皿はもともと不安定な場所に置かれていました。皿の管理責任はわたしにあります。弁償します」

 

ASDあるある」ですよね、たぶん。極端に書いてますけど。「なぜ」を字義通り解釈するのが問題であるとしばしば書いてあります。でも、ほんとうにそれだけなんでしょうか。

 

 

これね、自分と皿と相手、じゃなくって、自分と皿までしか見えてない、と考えると、説明できるのではないでしょうか。

自分と皿だけに注目すると、自分が皿を割った、以上、です。もうちょっと詳しくいうと、自分が皿を割った経緯と、皿の性質(重要な皿か、など)ですね。ここに、他人の感情(怒りだとか)は入ってこない。なので、「なぜ」と聞かれたら、皿を割った経緯の説明をしてしまう。弁償などするとして、皿の価値を計算・推測して、そのとおりの額(など)を弁償する。それで、おしまい。

これ、とっさの折にいまでもやらかします。真剣にわかってない。

「なぜ皿を割ったのか!」

「皿はもともと不安定な場所に置かれていました。皿の管理責任はわたしにあります。弁償します」

「理由を聞いてるんじゃない!」

(…何を聞いてるんですか? と、首をかしげる) 

「ふざけるな、わざとだろう!」

「ふざけていません。わざとでは決してありません」

「そんなことでこっちが許すとでも思っているのか!」

(…許すとか許さないとかじゃなくて…?)

 事態は悪化します。確実に。

 

 

前回書いたとおり、わたしの視界には、「皿を割った件について怒っている相手」はまったく入っていません(いまは見えます、しかし、時間とエネルギーを要します)。だから、相手の怒りを謝罪によってなだめるとかまったく思いつかない。

 

 

そのいっぽうで、「皿を割った自分」は視界に入っています。ここで、「わざと」皿を割ったと思われるのはものすごく困る。名誉毀損の最たるものです。

というのも、「自分的前提」「自分的常識」として、「他人に、故意に損害をあたえてはならない」というものがあるからです。それは、わたしは呼吸しなければ死ぬ、というのと同レベルの「当然」なのです。その「当然」に反していると思われる(というか、反しているだろう、という声が耳に入る)のはあまりにつらいので、つい反論してしまう。そこまで強い「当然」なので、「自分さえわかっていればいい」とは思えない。

ただこれも、視界に相手が入っていないことを考えると、たとえば許してくれなどの、相手に対するメッセージではないわけです。自分についての宣言(相手なし)でしかない。

 

 

同じ理由の、別のケース。

以前、院内ルールが理不尽な件について、患者さんに謝ったことがあります。いまは、患者さんの感情はひとまず視界に入っていますし、社会的ルールとしての謝罪の意義については理解しています。自分が直接行ったことでなくても、現場責任者として対処すべきことがあることもわかっています。

謝罪の結果。「医者に謝られるなんて初めてだ!」と感激され、話がそこで終わってしまいました。取り残されたのは、今後の改善策について話し合おうと準備していたわたしです。

 

 

これ、ASDが障害であるということの本質にかなり近い話かと思うのですけれど、どうでしょうね。「自分的前提」「自分的常識」については、またいずれ。