本能と論理、あずさの場合。

あいさつは、あいさつという掟なんだから、ひとまず従っておきましょうよ、なんて言うと、それがあずさの道徳の欠如だとか、あずさは人間味を欠いているとか怒られたりします。人間なはずなんですけど、それはさておき。

 

 

あいさつは、共同体の掟にすぎない。

これを批判するのは別にかまいません。わたしも、他の理由はあると考えています。

しかし、「共同体の掟にすぎないとか、あいさつを軽んじるのもいいかげんにしろ!」といって怒る人たちが、たとえばわたしに、あいさつの意義を言語化して説明してくれる頻度は非常に低いということに気づきました。

あたりまえすぎて言語化は不要である。そうでしょうね。でもそれって、たとえばその「あいさつ」の必要性を感じる側が少数派だとして、説明しろと言われたとして、やっぱり、「あたりまえすぎて言語化は不要である」という反論は成り立ちうるのでしょうか。

 

 

マウントを取るということの意義がわからない、自分が相手より上であると誇示したところで何が楽しいんだろうか、本業についての競争ならともかく、何でもいいから勝つとかそもそもみっともないような気がする。

まあ、暴力と言っていいでしょうね。相手に、強制的に言うことをきかせる。反論は許さない。サルとあまり変わらないような気もします。

サルと変わらないというのはかならずしも批判じゃなくって、そっちのほうが「いきもの」として自然だという意味です。いきものあるいは本能。もちろん、本能だけで生きていくのはちょっとね、というわけで人間社会は発展してきたわけですけれども、いきものとしての本能は消えてはいなくて、そこかしこに息づいています。そしてそれは、やっぱり、強い。

 

 

本能と論理について大いに考えて、それはこういうメリットとデメリットがあるから、言語化し検討した上で論理を採択しよう。これは、立派なことだと思います。

しかし、本能のインパクトが弱くて、論理に頼る以外の選択肢がないことは、本当に立派なのかなあ、たぶん違いますよね。

 

わたしのASDらしさって、ひとつには、後者のようにも思います。論理的(ときどき感情的ではあります、とはいえ)だったり公正だったり、のように見えるのは、決して、修行の成果ではありません。たぶん、何かが欠けている、いきものとしての何かが足らないから、そうせざるを得ないのです。

でも、たぶん、「ここで本能にしたがうのはちょっとかっこ悪いよね」と思っているひとたちのうしろめたさみたいなものを、ナチュラルに刺激することもあるのでしょう。この文章も、そうかもしれませんね。

 

 

ユングの原型の話で、論理をつかさどる年老いた男性と、エネルギーをつかさどる若い女性と、というのを見かけたことがあります。バランスをとりたいところですけれど、片方が欠けていると難しい、ですね。

ただ、欠けているなりに、見た目だけでも補完できないかと模索しているのが、一連の記事であると考えていただければさいわいです。