わたしにとっての世界の見えかた、定型発達の人にとっての世界の見えかた

いま、「発達障害の精神病理3」という論文集を読んでいます。このなかに、ときどき、「わたしもそうです…… って、定型発達の人は違うんですか」ってことが出てきます。世界の見えかたについて、なんか腑に落ちたことがあったので、メモを兼ねて。仮説ですから、絶対正しいとかそういうものではないのですけれど、実感として。

 

さて、ASDの人、というかわたしにとっての世界の見えかたから先に扱います。こっちのことばかり論文には書いてあって、定型発達の人のことはあまり論文に書いてないものですから、最初は何を言っているのかよくわかりませんでした。って、定型発達の人が読者として想定されているはずですから、定型発達の人のことは自明として省略されているわけですね。難しい。

 

さて。わたし(ASD)にとっての世界の見えかたはこんな感じです。まいわーるど的な空間があって、その中に自分を含めた人間とか、ものとかがある。それを見ている自分というのはあんまり意識できてないです。ふつうに、脳の中に存在するって感じです。

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自分と他人はまいわーるど内の登場人物としては平等? なので、ある意味公平な扱いとなります。たとえば、ものにぶつかって謝るとか。

平等なのはいいんですけど、これ、ゲーム画面みたいなものなので、どうも、それぞれの他人が「内面」とか「こころの中」だとかを持っている、というのが想像しづらい。いや、想像はできるんですけど、意識しないと難しい。また、単なる登場人物なので、「自分に対する」意図とか想いとかも、意識しないと認識できない。

ただし、行動の観察や分析はできます。そこからパターンを抽出することも可能です。

 

……と、この解説が続いていて、「……だから何」と思いながら読んでいました。

定型発達については解説がない。でも、この「まいわーるど」(とは論文には書いてないけど)についての解説が論文になっているということは、定型発達の人にはない特徴だということでしょう。

定型発達の人の世界のみえかたを、推測ですけど補ってみます。

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どうも、あくまで自分が中心らしいんですよね。自分からみた他人とか、自分からみたものとか、そんな感じで世界が把握されている。これなら、自分と他人の距離感だとか、他人が自分をどう思っているかとか、きっとわかりやすいんだと思います。