自他分離、の「他」は存在するのか。

前回の記事での、「誤解はつらい、真意は文字通りですでに示されているのだから、別に許してくれる必要はないけれど、そのまま受け取ってほしい」というのが、

・自分の不安の解消を相手に求めている

・誤解をどうこう、のコストが違うのだから、定型が負担せよ

という意味であり、その結果、

・(わたしのいう)ASD的感覚と(その人のいう)定型的感覚と、あずさはきちんと線引きできていない、自分は自分、相手は相手と線を引いて、自分の感覚は自分で引き受けるべきである

とさとされ、意味はわかるんですけど、そうかそうなるのか、そういうつもりはないんだけど、そう聞こえるのね、と、「故意かどうかは相手が決める」と言われたとき以上のショックを受けました。

許してくれとかじゃない、たんにその発言は嘘ではないと信じてほしい、というのは、望み過ぎだったのか、というのは、まあ確かに、他人に認識を変えろと迫っていることにほかならず、自分でなんとかしろと言われても仕方がない、ですね。

前回の記事のように考え、自分で引き受けるべき問題を他人に引き受けろと無自覚に迫るのはASDの問題ではなくてわたしの問題ですから、他のASDの人たちを責めたり、「これだからASDは」と考えるのはぜひともおやめください。それこそ他人の認識を変えるのは図々しいですけれども、どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

まさかこれが自分の不安の解消を目的とした文章だとは思ってなかった、のはさておき、どうしてもひっかかるのが「自他分離」です。この言葉、最近ツイッターで非常によく見かけるんですよね。それこそ、誤解されているようで落ち着かないのです。これは、場面とか相手とかを想定しているわけではないので、不安の解消を相手に求めているつもりではない・・・のですが、仮にそう思われるとしたらごめんなさい。

 

 

自他分離の前提は、他人が存在していることですよね。ひっかかるのはそこなんです。いや、他人が存在している、地球上には自分以外の人間がいる、それはわかります。ただそれは、「ヒト」という生き物が存在する、自分と生物学的に同種の「ヒト」がいる、という感覚にすぎない。わたしは幼い頃、そのように感じながら育ちました。生物学的な「ヒト」ではなく、他者(通常の意味での他人)が存在するということに気づいたのは、たぶん10歳の頃です。

わたしはこれが、「自閉」の意味だと思っています。他人がいない。閉じるのも、他人(他者)がいる前提のことばですよね。そうじゃない、閉じてない、たんに、他人(他者)が存在しないのです。

 

 

具体的なエピソードを挙げます。以前も挙げた気がしますがご容赦を。

 

わたしが4歳の頃、弟が生まれたんですよ。その小ささに驚いたわたしは、「これ(弟)が、見ていないうちに息が止まっていたり動かなくなっていたりしたらたいへんだ、母親がこの子の世話をする係のようだから、母親をそれに専念させねばならない、わたしに時間を使わせるなんてとんでもない」と考えました。

その結果、

「わたしはもうおとなだから、幼稚園の送り迎えとか来なくていい」

と母親に告げ、母親をずいぶん悲しませたようです。というか「おとな」って何、と、滑稽に思われたりもしていたようです。

 

 

 

ずっとあとになって、このエピソードを友人に話しました。「悲しませたとか滑稽に思われたとかいうけど、姉としてずいぶんりっぱでけなげなこころがけなのに、ひどいじゃんね、それ」と言われました。

・・・あれ? その動機を告げれば、たしかに、りっぱだとかけなげだとか思うひとはいると思います。しかしわたしは、どんなに記憶をたどっても、その動機は伝えていなかったのでした。言わなくても理解されていたわけではありません。いまでも、わたしの身内は、その真意は知らないはずです。

 

 

言わなくても理解していてくれるだろう

理解してくれないなら黙っていよう

わかってほしい

わかられてたまるか

 

 

これらは、他人(たとえば母親)の存在が想定されてこそ、成り立ちうる文章です。理解する他人、理解しない他人、いずれにせよ、他人は存在する。

 

それが、いないんです。理解するもしないも、もしも無人島であれば、問題にならないですよね。いやそれだって、「ふつうは」、ここに他人がいるのならば、と考えたり、神様などの存在を仮定したり、動物を人間に見立てたりして、理解されるといいなと願うかもしれません。

 

それが、いないんです。

 

 

だから、当然、言いもしないし、期待もしない。他人に期待するのはやめましょうとかいう道徳とはまったく別次元の問題です。そんな他人は存在しない。そんな他人も何も、どんな他人も存在しない。

 

 

他人の存在は、10歳ごろに突然気づきました。

その10年の差は、たぶん、ものすごく大きいと思います。気づいたからいいじゃん、じゃ済まされない。だから、もちろん、「自他分離」ができていない可能性は否定はしないけれど、たぶん、その意味は、幼い頃から「他人が存在する」世界で生きてきたひととは、ぜんぜん違うんです。

 

ASD的こだわりかもしれません。そこは、わからないですけれど。理解してほしい、知っておいてほしいと願うのはやめておきます。他人を操作するのは本意ではありません。ただ、書き留めることは許していただければと思います。