あずさのこと。空気の正体とあずさのつまづきポイント。仮説です。

「自分がされたらどう思うの!!」についてです。幼稚園児あずさは、「真面目に考えて」放っておいてほしいです、と答え、ますます怒られることになりました。

さて、ここでの模範解答は何でしょう? って、わたしが答えようとすると単なる推測になります(笑) たぶん、「先生を呼ぶ」「大丈夫? と声をかける」あたりでしょうね。選択肢はあまり多くはないはずです。

泣いている子をみて「何かしなければ」という気持ちに駆られることと、「模範解答」とされる行動の幅がかなり狭いことを考えあわせると、泣いている子がいるときの他のこどもの(正しいとされる)行動はだいたい決まっている、という結論が導かれます。

 

しかし、です。その子がほんとうは何を望んでいるかはわかりません。その子があずさの同類だったら、本当に放っておいてほしいかもしれないわけです。先生とものすごく気が合わなくて、先生だけは呼んでほしくないと思っているかもしれません。それでも、模範解答は上記のとおりであり、その子が放っておいてほしいと思っているからといってほんとうに放っておいたら、やっぱりあずさは怒られてしまうでしょう。

ということは。「模範解答」は、泣いている子が自分の希望で決めることではありません。他に条件があるはずです。文化と状況によるのかなとわたしは推測しています。たとえばこれが、スパルタ野球部であれば、立て、と言って一緒に走るのが正解かもしれませんよね。普遍的な正解はないと思われます。

 

まとめると、泣いている子どもがいるという状況においてあずさが取るべき行動は、文化と状況によって決められる ということになります。

これが、空気の正体、すべてではないにしても一部ではないでしょうか。幼稚園児あずさは、泣いている子に対して何かしなければ、という衝動に駆られないうえに、「文化と状況」がわかっていませんでした。文化と状況によって行動が決まるという事実に考えが至らなかったわけです。かといって、ほとんどの幼稚園児はそこまで考えずに「正しい」行動が取れますよね。たぶん、文化と状況を分析して行動を決めているというより、文化と状況と行動をセットで学習しているんだろうと思います。セットで学習できないあずさは、「自分で」行動を考え、つまり、自分の手持ちの証拠から自分の論理をもちいて行動を創造(といえば聞こえはいいんですけどね)して、結果的に「不正解」となったのでした。

 

もう一つ例をあげますね。わたしと夫がヨーロッパに旅行したとき、レストランでメニューが読めず、ウエイターさんを呼んでおすすめメニューを聞き、そのまま注文する、ということがありました。定型発達の夫が驚いていたので事情を聞くと、彼が外国で、一人でレストランに行ったとき、やはりメニューが読めなかったということがあったのだそうです。注文を聞かれてちょっと待ってくださいと言って、やっぱり読めずに声をかけられるのを待っていたらずっと声はかからず、最終的には困って適当に注文したのだということでした。彼の行動はたぶん、日本のレストランであれば「正解」でしょう。でも、その国では「正解」とは言い難かったわけです。それに対してわたしの行動(ウエイターさんを呼んでおすすめメニューを聞き、そのまま注文する)は、日本のレストランではひょっとしたら無礼、少なくとも奇異な印象を与える行動である一方、その国では「正解」に近かったと考えられます。

 

「いずれにしても読めないんだから聞くしかないよね」

「まあ、確かに…」

わたしは、その国の文化を考慮したというよりは、文化はさておきもっとも合理的な方法を選んだといえます。夫は、文化と状況と行動をセットで学習していたため、状況が共通だからと、常に背景にある日本文化を前提として普段どおり行動したところ、ここでは不適切な行動をとってしまいました。夫は非常に論理的な人です。その彼であっても、文化と状況と行動をセットで学習しており、それについて分析する機会はなかった。ということは、大多数の人も、文化と状況と行動をセットで学び、分析などはしていない、分析はしなくてもそのセットで日々の生活はうまく回っている、とわたしは推測します。

 

まだ考察途中なので、今後訂正などあるかもしれません。いまのところわたしが考えているのはここまでです。