空気とことば。ことばと論理。

アスペは非言語的コミュニケーションが苦手だとかいいますよね。少なくともわたしは苦手です。日々そのように実感して過ごしていると、非言語的コミュニケーションはことばよりすぐれているような気がしてきます。ほんとうかしら。というわけで、いいかわるいかいったん保留して、考えてみます。対にしてみますね。

 

非言語的コミュニケーションという名前はさすがに長いので、「空気」としましょう。言語的コミュニケーションは「ことば」にしておきましょう。わたしがことばの味方なのは、日々空気で苦労させられているのでしかたないということにしておいてください。

 

ことばは鳴き声が発展してできたものだといわれています。ことばがあることでなにが可能になったか。ひとつは、遠くにいるひとに伝えること、ですね。空気では、かなり近くのひとにしか伝えられないものごとを、遠くにいるひとにも伝えることができます。電話とかメールとかもそうですね。もう一つは、未来に向けて残すこと、過去の記録を参照することです。時間的な距離、ともいえます。これはほんとうに、空気では無理です。

 

また、空気は、文化など共通のものが多ければ多いほど、効果的に働きます。ジェスチャーは空気とことばの真ん中あたりにあるようにも思いますけれど、ジェスチャーとは普通考えられていないような微細な表情・身体の動きまでひとつひとつ意味が違うとすれば、やはり、「空気」はコミュニケーションの道具として働きづらくなることでしょう。これに対してことばは、異文化との接点において真価を発揮します。たとえば条約。おたがい文化的背景も事情も歴史も異なるなか、それぞれの国にとって同じ意味に受け取られるように、自国に持ち帰ってあとで読み返しても意味が変わらないように、やはり、ことばで記します。空気はそもそも記録できませんし、記録ができないということは証拠として残せないということであり、検証できないということでもあります。

(余談。空気が重視されるということは自分と相手が【同じ】であることを重視するということと同義であり、すなわち、少数派を排除する方向に働くことだとわたしは考えます。)

殴り合いにはことばは不要、和平にはことばが必須です。ただし、戦争であっても、大きくなればことばが必須です。昔、日本で標準語の普及が急がれたのは、戦争において命令が理解されないという事態を回避するためだったと聞いたことがあります。

 

アスペは空気が読めないぶん代償としてことばを発達させた、というのはたぶんほんとうではあるのでしょう。それはそうだけど、空気という雑音なしにことばそして論理を扱える、と言ってもいいんじゃないかな、と思ったりするのです。

 

ちなみに、ASDのなかには、知能が平均あるいはそれ以上、ことばが苦手な人たちがいます(高機能自閉症とよぶことがあります)。そのなかには、ことばをつないでいく論理よりも、パターン認識が得意なひとがいるようです。これは、たとえばいきものの分類や星座の認識、天気の予測につながる能力ではないかと推測しています。論理は時系列、パターン認識は空間的広がりかなとか。時間芸術(音楽とか)と空間芸術(絵画/彫刻/建築とか)のアナロジーです。