アスペについての精神病理4。共感と論理の和は一定らしい?

共感とは、相手の気持ちを読み取ることに加えて、読み取った気持ちに自動的に反応してこちらの感情が動いてしまうことである、と先日読んだ本に書いてありました。「共感?いちおう気持ちは読み取れるというか理解はできるつもりだから、アスペのなかでも共感ができるタイプなのかしら」と思っていたあずさとしては、驚き以外のなにものでもありませんでした。共感、できてないじゃん。

その本にはさらに、共感は論理のじゃまになる、とも書いてありました。同じ知的能力を仮定した場合、共感の割合が増えれば論理の割合が減り、論理の割合が増えれば共感の割合が減るということのようです。日々の実感に即しているようにも思います。

 

泣いている女の子がいます。多くの人たちは、泣いているこどもを見たとき、いいわるいはともかくとして感情が動くのだそうですね。感情が動いて、そのあとに何をするかという問いがくる。感情が動いたからかならずよい判断をするとはかぎらず、意地悪をするという決断に至ることもあるでしょう。

これに対してわたしの感情は動いていません。泣いている子がいる、以上!です。もちろん、その後に何らかの行動をとりはします。何もしないも含めて。感情が動かないから悪い判断をするとは限りません。論理的に最善と思われる行動をとる可能性が高いです。泣いている人を前にして動揺しないのはそういえば、精神科医としての修行の成果ではなかったのでした。

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さて。このシチュエーション、論理と相性が悪いです。

あずさのこと。人前で泣いてはならない、という教えについて。 - 精神科医的ひとりごと(仮)

共感(感情)がからむ場面では、論理的に、つまり個別の事情を考慮せずに原理原則に基づいて行動すると多くの場合失敗します。

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裏を返すと、共感(感情)がからまない場面では、論理の活躍する余地はじゅうぶんにあります。論理力を鍛えるチャンスはたくさんあるわけです。たとえば、人数を数えるとしましょう。あの子かわいいとか言っていたら、たぶん数えられませんよね。共感や感情が、雑音としてはたらく場面もありそうです。人間相手じゃない場合はほとんどそうかもしれません。

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共感と論理の両方を持ち合わせて適宜使い分けている(いいかえると、論理だけをつきつめることは困難である)多数派と、とくにこころがけなくても論理だけをつきつめることができてしまうあずさ、というわけです。

空気が読めないから代替案として論理に頼ってきたから論理が得意なのかな、と長い間思っていました。共感という雑音?が入らないから論理が発達した、と考えたほうが、実感に沿うだけではなく自己評価が上がりそうですから、今後はこっちを採用しようと思います。