それでも何かをしてあげたい、として。

たとえば泣いているこどもがいたとして、多数派の人は、「自動的に」こころが動き、「こころから」何かをしてあげる、またその際に、最善の行動を「自動的に」選ぶことが可能なのだろうと推測しています。しかしわたしは、その「自動」が働かない。そんなプログラムはインストールされていないのです。自動的にはこころ(感情?)は動かないし、自動(というか深く考えずに)で動けばほぼかならず間違ったり残念な結果を生んだりする。これは正直、けっこうきついです。

「自分がしてほしいように相手にしてあげなさい」という教訓が成り立たないというのは、不便であると同時に、なんとなく、疎外感を感じるような気がします。

 

 

こころから(それが何であれ)何かをするというのはたぶんずっと前にあきらめてて、適切な行動を計算で割り出すことにしています。いいかえると、「自動」はあきらめて、「手動」で「フローチャート」に従って動くことにしました、ということです。わたしが自分を参照して、何かしてあげたいという気持ちだけに従って動くと結局そのひとのためにならない。

とはいえ、「何かしてあげたい」相手に限って、変数を増やしすぎて計算が狂ったりします。変数が増えると同時に観察密度が上がって、「また間違った!」の頻度も上がり、その結果混乱する、というのがよくあるパターンです。その悪循環そのものを検出することはできるので、何かしてあげたいという気持ちがあるぶんよけいに自己嫌悪に陥って、自己嫌悪に陥っている自分に対して「一人で勝手に自己嫌悪に陥って落ち込むなんてバカじゃないの」とさらに腹を立てる、みたいなループにはまって、面倒になって全部投げ出す、ということもしばしば起こります。

 

 

わたしの仕事においては、たぶん、変数をほどほどに抑えることが(プライベートに比べたら、ずっと)容易で、だから、絶対最善とまではいかなくてもそれなりに適切な対処ができることもあり、だから、「ひとの気持ちがわからないASD」でありつつ、業務が成り立っているのでしょう。また、精神科医としては、「こころから」「自動で」患者さんに応対することがかならずしも毎回最善とはいえず、それぞれの行動について個別に考えることが要請される場面が多いので、「自動、のスイッチを切る」ことに慣れているASDがかならずしも毎回不利というわけではない…… と思います。希望的観測に過ぎないかもしれませんけれど。。