ASDが絶対的多数であった場合のコミュニケーション。

20人全員がASDの部署に、定型の人が、係長として配属されてきたとしましょう。

 

3時締切の書類を抱えている平社員に対して:

「2時半だけど?」

「2時半ですね」

「…… 書類は終わったの?」(ここまで言わないとわからないのか)

「まだ終わっていません。この図がまだ完成していないのです。このまま出せと言われれば出せはするのですけれども、グラフのここの色がどうもしっくり来ません。緑がいいのかオレンジ色がいいのか、アドバイスをいただけますか」

「そこは…」(なぜここまで堂々としているのだろうか)

 

自分が3時締切の書類を抱えていたとして、課長から:

「書類の締切は3時だけど、その書類は完成したの?」

「あとちょっとです」

「終わってない部分は? 終わりそうになければその一部でもわたしが引き受けるけど」

「えっと」(怒られてるのかな)

「30分で確実に終わるという予測なわけね、それならいいけど」

「あ、はい……」(ぜったいものすごく怒ってる、顔には出てないけど)

 

以心伝心スタイルのコミュニケーションを含め、コミュニケーションツールを使うには相手が必要です。以心伝心スタイルが誰にも通じなければ、そのスタイルはその部署では使えないということになります。この場合、定型の係長はその状態にあっさりなじめるでしょうか。

これは推測なのですけれども、感情が込められていないところに感情を読んでしまうだけでなく、要求などをすばやく言語化することにも苦労するんじゃないかと思います。以心伝心コミュニケーションが得意である「から」正確かつ詳細な言語的コミュニケーション能力も「そのぶん、さらに」高いというのは、幻想なのではないか。

みんな知ってるのかな、わたしはその「幻想」を長らく抱いていました。以心伝心で何かしらやり取りしているということは、コミュニケーション能力がわたしより高いということで、ということは言語的コミュニケーション能力も高く、説明を求めればクリアで詳細な返答が当然返ってくるだろうと。しかし、(もちろん)そういうわけにいかないことも多かったです。そのときには、「そうか、忙しいんだな」で片付けてました。毎回。

 

すべてのASDの人が、この幻想をいだいているとは言いません。ただ、わたしの患者さんのうちASDの人たちには、同様の幻想をいだいている人が何人かいたので、わりと「ありがち」な事態なのかなとも疑っています。