精神療法とは何かみたいなこと7。一言多い、一言少ない。
さて、話を聴くことそのものが精神療法で「ありうる」として、それだけなのか、という問題です。聴けばいいのか。聴きさえすれば患者さんは自分で答えを見つけ解決していくのか。
「そのとおり」と言いたい気持ちはあります。実際そのとおり、という人は一定数存在します。薬は要らなかったり、気休め程度の漢方や軽い睡眠薬を一時的に使用する(そして実はのんでいないと言われる)くらいで済みます。
一歩進んで、「余計なことを言ってはいけない」という流派?もありますね。「非指示的」ということばもあります。しかし。何も言わずにただ聴くことが、本当に「毎回」正解なのか。どうでしょう。わたしはけっこう本気で、疑っています。
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患者さんが一人で答えを見つけるかもしれないけど、それまで待っていられない程度に事態が差し迫っている場合もあります。「愚痴外来」が成立する背景には、手術などがすでに終わっていて、体調が安定している、という条件がありました。しかし、精神科に来る人たちは、現在進行系の問題を抱えていたり、体調を崩したりしています。自分で答えを見つけるまで待ってられない。
「過労ですね」
「家事と育児と仕事と、すでにトリプルワークではないですか」
「それは、普通の人には無理です。札幌市に数人というレベルです」
「愛情があっても、疲れるものは疲れます」
「心からじゃなくても演技でいいと思います」
「えらい目に遭いましたね」
「おつかれさまでした」
「悪いのはあなたではありません」
「相手の問題です」
「周りに助けてもらうのは、弱さとはまったく別の問題です」
「そんななか朝ごはんを作っただけでも偉い、わたしが保証します」
などなど。
当たり前のことばっかりではあるのですけれど、白衣効果なのか、話を全部というか一段落するまで聴いてから提案すると、「そっか」と、腑に落ちる人もいるようです。わたしには能力の凸凹があり、「できないこと」が非常に多いので、「少なくとも、わたしには無理です」とつけくわえることもあります。
それだけで、「気が楽になりました!来てよかったです」とおっしゃる方もいます。あながち、わたしに気を遣って演技をしているだけとも思えない。たぶん、ちょっとは救われた感じもあるのでしょう。これで楽になるなら、それでいい。
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何が言いたいかというと。
「聴いた!」「余計な?コメントはしなかった!」「よって、素晴らしい治療をしたのだ」というのも、少なくとも、「つねに」「かならず」正しいとも言えなかろうと。
それを言うか言わないかの判断は、「診断」に近いものだと思います。
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ところで。
上記のコメントを言う言わない以前に、「聴くこと」にも副作用はあります。聴けばいいというものじゃない、ということの別の側面ですね。次回はその話かなあ。
今回はこのへんで。