思いやりということばに対する恐怖について。

思いやり、ということばが怖いです。いまでも。

 

「思いやりがない」と怒られることが何度もありました。相手の都合を考えない、自分の都合ばかり主張する、と。「彼(彼女)の立場ならどう思うの」と聞かれて自分の考えを述べると、真面目に考えて正直に答えているのに「真面目に考えなさい」とさらに怒られる。自分は「思いやり」という、何か大事なものが欠けている欠陥人間なのだと、長い間信じていました。

いま考えてみれば、少数派なのですから、自分の想像が当たらないことなんて当然なのでした。たとえば学校の先生は、わたしの答えが彼らの考える模範解答と一致しないことを、わたしが「真面目に考えていない」からだと結論づけてわたしに腹を立てていたのです。当時は、発達障害やアスペといった少数派が存在することすら知られていませんでしたから、わたしがそういった少数派に属しているなんて、先生だって考えもしなかったことでしょう。

あずさのこと。人前で泣いてはならない、という教えについて。 - 精神科医的ひとりごと(仮)

 

真面目に考えることと、正解を述べることは、ほんとうにイコールなのでしょうか。考えれば正解に近づくかもしれません。しかし、考えても不正解かもしれないし、考えなくても正解は出せるかもしれません。テストだって、どんなに考えても間違うときはありますよね。その一方で、かんたんなテストであれば、なにも考えなくても正解になるかもしれません。

 

そう考えると、「真面目に考えなさい」という指示はあまり適切ではなさそうです。これ、わたしがアスペだからどうこうというだけではなくって、たとえば教育の場面でもよくありますよね。算数の問題で答えが間違っているときに、「もう一回考えなさい」「真面目に考えなさい」言われた側が困ってしまうこと、ありそうです。

ヒントがあれば、いいですよね。もう一本補助線を引こうとか、たんなる計算ミスだから見直しをしようとか。漠然と「考えろ」じゃなくって。「真面目に考えなさい」と責めるんじゃなくって。

 

そして。

この「思いやり」の件、わたしが相手の言いなりになりがちなことにつながっているような気がします。想像はすべて外れるいっぽうで、相手のことばなら正確に読み取れる。少なくとも、完全に的外れなんてことはない。最低限、相手の言葉という証拠がある。他人に提示はしなくても、自分自身はその証拠を参照できる。そういう状況を考えると、ことばに頼るのも自然かなと思うのです。わたしは、非言語的コミュニケーションに難がありますから、ことばしか頼りにできないのはたしかにそうです。そして、「思いやり」を強調されるたびに、ことばへの依存は強まり、ことばに抵抗することがどんどん難しくなっていきました。

そして、「言いなり」の件につながります。思いやりが欠けているのであればせめて親切に、とこころがけるあまり、親切心を悪用されたようにも思います。

選択の自由とか相手自身をネタにした脅迫とか、自分の意志が行方不明になってしまうトリックとか。 - 精神科医的ひとりごと(仮)

「思いやり」というキーワード、わたし以外の人にはわかりやすくてしかもそのひとの成長をうながす、素敵なことばなのでしょうか。いまでも、わたしにはわかりません。