あずさのこと。人前で泣いてはならない、という教えについて。

わたしはこどものころ、「人前で泣いてはならない」と教わりました。「人前では泣いてはならない。多くの女性は、自分の希望を通すために泣いてみせる。それは、言語による交渉を飛ばして自分の要求を無理に通すという卑怯な行為である。あずさが泣いたら、あずさも自分の希望を通すために泣いているのではないかと疑われるだろう。卑怯なやつだと不名誉にも誤解されるのは望ましくない。よって、人前で泣いてはならない。泣きたくなったら他人のいないところに行きそこで泣くように」と、父は言ったのでした。3歳児にこれを説く父親も、アスペなんだろうなと思ったりします。

今思うに、父親もわたしと同じく、泣いている女性に他人を操作する意図があるかどうか、その有無すらわからず、操作されて痛い目にあった経験があるのでしょう。娘がそうやって他人を操作することは、彼には耐えられなかった。とはいえ、彼自身には操作の意図があるのかないのかすら感じられない。よって、人前で泣くことを一律に禁止する以外にやりようがなかったのだろうと推測しています。

 

さて。この教えをこころに刻んだわたしは、幼稚園に通い始めました。そこで、泣いている女の子を目にします。どうも、転んで膝をすりむき、それが痛くて泣いているようです。

わたしは彼女をほうっておきました。「あの子は、卑怯だと思われては困るということを一瞬忘れて泣いているのだろう。わたしがここで声をかけたら、卑怯だと思ったに違いない人が一人はいる、ということになってしまう。彼女もじきに気がついて泣き止むなりどこか一人になれる場所に行ってそこで泣くなりするだろうから、彼女の名誉のために気付かないふりをしてあげよう」というわけです。

 

しばらくたって、わたしは先生に怒られました。

「転んで泣いている子をほうっておくだなんて、自分がされたらどう思うの!!」

「そのほうがありがたいです」

「真面目に考えなさい!」

「真面目に考えました」

 

当時は、アスペなんて概念もありませんでしたから、先生もとまどったと思います。口は達者なほうでしたから、まさかわたしが、ほんとうに「わかっていない」とは思わなかったのでしょうね。しかしその一方で、まじめな子どもでもありました。それは、先生もわかっていたように思います。できれば、正解を教えてほしかったです。そうすれば、泣いている子がいれば声をかけよう、と学習できたかもしれません。

 

最近、「泣いている子がいたら声をかけよう、という文章そのものがアスペだ」と指摘される機会がありました。くわしくたずねると、以下の答えが返ってきました。

「泣いている子がいれば、大多数の子どもは感情的に大きく揺さぶられる。どうしよう、と慌てる。そして、気の毒だとか何かしてやりたいとかいやこれは何かしてほしいがゆえのウソ泣きだろうとか、ウソ泣きだったら放っておこうとかウソ泣きでも実際すりむいてはいるから声はかけようとか俺が泣かせたと思われたら困るとか、いろいろ思いつくなかで、次の行動を選ぶものだ。あずさは、泣いている子を見て、感情が動かされるわけではないだろう。泣いている子どもをみて何も感じるわけではなく、いや、感じるとしても、せいぜい痛いんだろう、それは気の毒だ、くらいのことだろう? 感情を大きく揺すぶられるということがないまま次の行動をプログラムとしてインストールするというのは、すくなくとも大多数の子どもの学習過程ではない」

 

なるほど、と、目からウロコでした。これは、あずさの「アスペっぽさ」を象徴するエピソードのひとつではあると思います。すべてのアスペに共通する特徴ではないと推測するものの、です。この件、他のことともつながっていそうなので、もう少し深い表現ができないか考えているところです。