予定変更が苦手な件とフラッシュバックについて。

自閉症の現象学 第3章です。過去と未来と、現在の話。難しい言葉は多少? 翻訳して書きますので、完全に正確かといわれるとそうでもないかもしれません。ご了承ください。今回は時間についです。

 

 

常同行動(まったく同じ動作の繰り返し)をしているこどもがいるとしましょう。

過去(前回の常同行動)=現在(今回の常同行動)

が成り立っていると考えられます。で、過去と現在の関係から、現在と未来の関係が予測されると仮定すると、

過去(前回の常同行動)=現在(今回の常同行動)=未来(次回の常同行動)

となります。つまり、過去=未来です。常同行動ですね。

 

 

常同行動ではない場合は、過去と現在の間に多少の違いがあると思われます。ということは、現在と未来の間にも多少の違いがあると予測されます。

この予測の幅と、予測が外れた場合にダメージを受けるかどうかが、定型発達と自閉症のちがいであるといいます。自閉症の場合、予測の幅がそもそも狭く、予想がちょっとでも外れると大ダメージを受ける(……実感あります)ので、不測の事態でパニックを起こす。パニックまで行かなくとも不機嫌になる。不意打ちも不測の事態ですね。苦手です。

別の言いかたをしましょう。未来予測と未来は一致しません。完全に一致したらたぶんそれは未来ではない。この「ずれ」は、知覚や直感、想像ではとらえることができません。自閉症の場合、未来と未来予測のずれを理解することが困難で、ということは、未来と未来予測の区別がつきづらいわけです。そして自分の未来予測と未来が一致するはずだと信じ込んでしまい(だって区別がないんですもの)未来予測が未来と当然ながらずれて、やっぱり不機嫌になる。わたしのことですかね。

 

 

過去の扱いも定型発達と自閉症では違うようです。

定型発達においては、過去は言葉によって編集されています。タイトルがあって、内容がある。思い出すときには、まずタイトルを思い出して、それから内容を思い出す。

また、編集なので、よけいなことは削除されています。イメージ記憶は脳の容量を圧迫するので、よほど重要なこと以外は切り捨てられます。

編集どころではないほど衝撃的な体験の場合は、編集されない、謎に鮮明でリアルな記憶が、思い出そうともしていないのに再体験されてしまいます。フラッシュバックですね。

 

 

常同行動に没頭している自閉症のこどもの場合、視線触発(ベクトル)がありませんでした。他人とのやりとりがないので、言葉もまだできあがっていないと考えられます。言葉がなければ、過去の編集もなく、イメージはすべて記憶される。過去の編集がなければ、タイトルもない。タイトルがなければ、自発的に思い出すのではなく勝手によみがえってしまう。フラッシュバックが非常に起きやすくなります。

もうちょっと発達が進んだ自閉症の人でも、フラッシュバックは起きやすいです。わたしもわりと起こします。定型発達と常同行動に没頭している自閉症児のあいだにいる、ということなのでしょう。

 

 

ところで、視線触発を予想して待ち構えることはできません。つねに不意打ちです。つまり、自閉症のひとは、時間の観点からいっても、視線触発でダメージを受けやすいわけです。

視線触発は、感情とか体の動きとかの組織化(何がなんだか分かるようになる)のきっかけでした。自閉症の人のなかにはこの組織化が苦手な人が多く(第2章参照)、不意打ちのダメージ+結局何が何だか分からないのでよけいに怖い というわけで、第2章の視線恐怖の話が少し進んでいます。

 

 

視線触発はベクトルでした。相手から自分に向かってくるベクトル。始点と終点がありますね。これ、時間的にも、始点と終点があると考えるのが自然です。相手から自分へと視線が到達するまで、ほんのわずかだけど時間がかかる。(裏を返せば、時間的に始点と終点がない=時間的なずれがなければ、そこにベクトルはありえないということになります。)そして、この視線触発(=ベクトル)が、第1章の空間的ベクトルと同様に、自分と相手との区切りのベースになる。区切り=自分と相手の接点/接触面ですから、自分と相手がコンタクトをとるには、自分と相手の間に(視線触発のベクトルが到達する時間ぶんの)ちょっとだけずれがある必要がある、ともいえます。

第1章では視線触発は空間的な話だったのですけれど、第3章では時間的な話になっています。

……というところまでがこの第3章でした。

 

 

用語にもだいぶ慣れて、読みやすくなってきました。ちなみにこの本、第8章まであります。

 

 

 

自分と相手の境界。

自閉症の現象学 第2章です。

 

他人が自分を見ているというベクトル(方向性、矢印)に気づくのが視線触発でした。

さて、見られた自分の側には、緊張や安心感、身体の動きが発生します。(見られているだけでは身体の動きはなかなか発生しません。しかし、たとえば抱き上げられれば発生しますよね)。

見られた自分の側に感情や運動が発生する

 +相手からのベクトルが存在し、自分と相手は等価ではない

→ 自分と相手の間には仕切りがある!

 

……ここまできてやっと、自分と相手との仕切りが発生しました。自分と相手は違う人になったわけです。

 

 

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さて、自分と相手の間に仕切りができました。この仕切りが動いた場合、自分が変形するだけでなく、相手も変形します。つまり、自分の感情や運動が自覚できるときには同時に、相手の感情や運動が感知できるということになります。この、「自分と相手の感情や動きを、仕切りのところで両方同時に感じ取っちゃうよね」というのを間身体性といいます。キーワード。

完全にわかる、というよりは下書きみたいなもので、今後動きうる範囲を決定するみたいな話のようです。たぶんネガティブな感情だ、とか、さすがに自分の後ろには回り込まなそうだ、とかなんとか。

で、相手の感情や運動を直接感じ取るといっても、「自分は相手の感情や運動を直接感じ取ったぜ」と思うわけではありません。実際には、表情や身振りを感じている、というのが本人の認識になります。

 

 

下書きといいました。今後動きうる範囲の決定ともいいました。

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よくわからないものって怖いんですよ。なんだかわからない生物に襲われる映画とかときどきありますよね。というわけでこの間身体性は、多少分析? されて「なにがなんだか、ちょっとはわかる」ということになります。この、「わけがわからない、ってほどではなく、輪郭とかが多少はっきりしたしわかるような気がする」というのを組織化といいます。

定型発達の人では、視線触発と組織化はだいたい同時に起こります。

自閉症の人では、視線触発は起きて間身体性も発生したけど組織化は起こっていないことがあります。これはつまり、相手の存在には気づいたけれどもどのような感情を持っているかわからず、次に何をするつもりなのかもぜんぜんわからないということであり、表情や身振りがぜんぜん読めない、ということでもあります。これ、怖いです。わけのわからないものが迫ってくる(視線触発は自分に向かってくるベクトルでしたよね)わけですから。というわけで視線恐怖とか起きたりする。

 

 

視線触発は起きたけど間身体性が発生していない場合、自分と相手がいまいち区別できていないという事態が発生します。自分と相手の仕切りが薄いところに相手から何かが向かってくる(間身体性が発生していない場合組織化も発生していないので、相手から向かってくるものはなにがなんだかわかりません)わけですから、これはかなり怖いです。

組織化が微妙な場合、相手の感情や意図(今後の運動の方向性)がいまいち読めない、という事態が発生します。わたしも含めていますよね、こういう人。

自分と相手の間に発生する感情には、親しさとか敵意とかの「関係」が含まれます。自分と相手の感情がいまいちわかっていない(組織化が微妙)場合、自分と相手の関係がよくわからないということにもなります。自分と相手の物理的距離というのは文化でだいたい規定はされていますけれど、そのベースにはこの感情的な距離があるので、感情的な距離が測れないということは物理的な距離も間違えがちということで、いろいろ謎に無礼だとか怒られることになります。わたしのことか。

 

 

定型発達の人の場合は、他者の感情を類推する前にすでに(正解かどうかはさておき)感じ取っているというか否応なしに感じてしまう、同様に、相手の緊張や運動の方向性についても考えるまでもなく感じ取り、考える前に反応しているといいます。これらが出生後早期にインストールされる。これに対して自閉症の人では、この「感じ取る」能力は、わりとゆっくりと、段階的に進化するようなのです。

 

 

いまのところ、相手から自分へ向かってくるベクトルは認識して、相手と自分との仕切りも発生しました。「相互」関係に足りないのは、自分から相手へのベクトルですね。これはまた、後の章で扱うようです。

 

じつをいうと読んでいるのはここまでなので、3章以降もがんばります。

 

 

視線に気づくということ。

自閉症現象学」という本を読んでいます。「自閉症スペクトラムの精神病理」も面白くはあるのですけれど、理論編としてはこっちのほうが読んでてわかりやすいようにも思います。珍しくノート取りながら読んでます。半分哲学書現象学)なのでさすがに用語で混乱するところもあり。勉強がてら、まとめを書いてみますね。絶対正しいとはいわないけど、大筋は外してないと思います。

 

第一章は、「視線に気づくということ」です。定型発達の子どもは生後すぐ(数十分!)で視線に気づくというのですけれど、自閉症のこどもではこの気づきがなかなか起こらないことがあります。

で、視線に気づくというのは、目すなわち眼球を認識することとは違います。知覚ではない。そもそも目は、たんに絵として認識するならただの丸ですよね。たんに眼球を認識するのではなく、相手から自分に向かってくるベクトル(みえないけど)を認識するという意味での「視線に気づく」を、以後、「視線触発」と呼びます。キーワード。

 

 

水には境界がありません。これ、ぜんぶ水ですよね。水を分けるには、仕切りが要ります。水を自分と他人であると考えましょう。仕切りがなければ、自分も他人も区別することが不可能です。というかある意味、自分という定義もなく他人という定義もないわけですから、(他と区切られた、正確な意味での)自分と(自分と区切られた、自分以外という意味での)他人はどっちも存在しないということにもなります。この仕切りの前提が、視線触発ということになります。

そうはいっても、水が凍って結晶を作るように、自他の区別とは違う、構造が生まれる可能性はあります。案外純粋な「美」だったりしてね。塩の結晶とかきれいだし。

 

 

水の中に方向性はありません。方向が出現するのは大事件です。この、「方向性の出現」=相手から自分に向かってくるベクトルの認識=視線触発は、一回起きるとなかったことにはできないといいます。

でもまだ単なるベクトル(矢印/方向性)ですから、仕切りには至っていません。仕切りの形成は第二章になります。

 

 

…… ここまでたどりつくのに5日くらいかかったんですけど、まとめてみるとわりと短いですね。いまのところ(2週間弱かけて)第2章が終わったところなので、まとめがてら少しずつ書いていこうかと思います。

双極性障害について、知っておいてほしいことなど。

双極性障害について知っておいてほしいことなど。とくに2型。そうとうつ、というよりは、うつを繰り返す病気です。

 

まず、身体の病気だと考えたほうがいいと思います。いろいろ事情があって落ち込んでいるのとは明らかに違います。身体が重すぎて動かない、足を引きずり歩くの遅い、頭が働かず決断ができない、食べられないあるいは食べすぎる、特定の味がわからないあるいはまったく味がしない、なかなか、ただの「落ち込み」では起きないことばかりです。気分屋とかではないです。わがままとかでは絶対にないです。

 

気分の上下とやる気の有無、心身の動く動かないは、すばやく交替するだけでなく、ばらばらに動くことがあります。混合状態といいます。

たとえば、気分は落ち込んでいるけどなにかしようという気はある。これ、精神科医的にはかなり避けたい事態です。自殺する元気が出てくる人がいます。

気分が最悪のときに頭だけ動いたらろくでもないことを延々と考え続けることになります。精神的自傷行為です。

逆に、気分はそこまで落ち込んでいないけどやる気がない。布団から出られない。顔を洗えない。風呂に入れない。食欲があっても何を食べるか考えるのが面倒。

 

分けて考えることのメリットは、「それでもがんばったこと」について共有しやすくなることです。たとえば、気分はそうでもないけどやる気がない、そんなときに顔を洗ったというのはすでに偉業です。反対に、気分は最悪でやる気だけある、そんなときに自傷行為をしなければそれもすでに偉業です。たとえばそんなこと。しかしながら、どの項目が「うつ」であっても、休んだほうがいいです。これは間違いないです。

 

うつとか主治医に知られると薬を増やされそうだとかいう理由で明るい話をしようと決意して受診する患者さんもいます。しかし、たいていは足を引きずっているので足音でわかります。足音まで偽装できる患者さんは少ないです。なので、諦めて素直に受診しましょう。

 

うつの治療の基本は休養です。休んでください。

2型の場合、数時間寝るだけでもかなりよくなることがあります。布団を敷いて2時間程度「治療ですから」と宣言して堂々と寝るというプチ入院がおすすめです。

 

薬は、気分安定薬が基本です。そうとかうつとかを「予防」する薬なので、効果が実感しづらいのが欠点です。インフルエンザの予防接種も、打ったから体調がよくなるってものでもないですよね? でも、シーズンが終わると「かからなくてよかった」と実感する。それに近いです。なので、気分安定薬は毎日のんでください。

これに対して、いわゆる安定剤(不安時などの頓服)は、骨折で言えば痛み止めの効果しかありません。対症療法ですね。痛み止めで骨折は治りません。なので、しんどいときだけにしましょう。

 

このへんわかっておくと療養がはかどるかしら。そうだといいんだけれど。

他人のいない世界の変貌について。

(厳密な意味での)他人のいない世界、他人がすべてNPCであり、自分がなにかしないかぎり自分と関係ない世界で自分と関係ない生活を営んでいるはずの世界に住んでいたという話をしました。その世界が多少なりとも変貌をとげたのが、10歳ごろであるとも。

ツイッターで見かけるかぎり、人によって時期は違うようですね。定型発達のひとたちでもものごころついてから起きることなのかな、違うような気がします。どうでしょう。そういうたずねかたをしたことがないので、確信は持てません。

 

ともあれ、わたしの話。

 

 

一番最初に、そして決定的に決裂したのが、父親との関係でした。それまでは非常に良好な関係だったんですよ。同じ行動で同じ反応を返す理想的なNPCでしたし、わたしのわからないことは理屈で説明してくれましたし。つねにわたしの味方でしたし。

 

しかし、です。これね、父親が、自分と娘(わたし)をまったく同じものとして見ていたからだったんですよね。コピーというより、自分の一部のほうが近いです。NPCの件は彼がASDだったからかもしれませんけれど。

典型的なエピソードとしては、たとえばわたしが転んでひざをすりむいて帰ったときに、大丈夫だの気の毒だの処置だのの前にまず怒られる、というものがあります。「親にもらった身体に傷をつけるのはなにごとだ!」というわけです。協調運動障害と近視のためよく転ぶこどもではありました。転んで一番に心配するのが、傷になっていないか、傷になっていたら怒られる、だったんですよね。そのくらい。病気しないこどもだったから、病気したらどうなってたかはよくわかりません。

これね、自分が怪我をしたのと同じリアクションであるとわたしは考えています。

テストで100点とかもそうです。喜んでくれました。しかしそれは、自分が100点をとったかのように、喜んでいたんですよね。三者面談とかにも現れて、娘の素晴らしさを演説する。居心地悪かったです。

 

でもこれ、今に至るまで、理解はされていません。「娘のことを大事に思っている自分」のままです。いやそれ、自分と娘を同じものとして見ているから、娘に起きたよいことで喜びわるいことで悲しむんだよ、とか。

わるいと言いたいわけじゃないです。彼の限界だとは思っています。

 

 

自分が膝をすりむいたときに怒るという、同じ行動に同じ行動で返すNPCである「だけ」のときはよかったんです。いつも同じ行動だから、むしろ安心できる。しかし、父親が自分のことをどう見ているかがうっすら見えたときに、怖くなったんですよね。「わたし、お父さんとは違う人間なんですけど!」って。

当時のわたしは、ここまで言語化できたわけではなく、ただ単に違和感があり、ただ単に怖かったので、わかりやすく離れようとしました。そして父親は混乱しました。毎日大喧嘩してました。双方、意味もわからず。

 

いまは、離れて暮らしています。そのほうが、お互いにとって平和なようです。

他人のいない世界のこと。

10歳ごろまでのわたしの世界には、他人がいませんでした。

ネグレクトとかではないですよ。人間はいましたし、大事にされていたと思います。厳密な意味での他人=自分と同格のひとたち、です。親族を含めて。

 

 

自分と同格でないというならなんだったのか。王様扱いか。

違います。NPCですね。今風にいえば。

親を含めた誰とも、厳密な意味での人間関係はなかったと思います。

 

 

よくしゃべるこどもではありました。

しかしそれは、ことわざ辞典を読み上げるのとまったく同じだったと思います。ことわざ辞典で新しいことを知るのは楽しい。故事成語も載っていましたから、正しく読めばテンポがいい。リズムのある文章は読み上げると楽しい。そして、親は喜んでくれる。頭がいい子だ、とかなんとか。

 

喜ばせようとしているなら人間関係はあったんじゃないか、って、違うんです。これ、壁にボールを投げて返ってくると楽しい、というのと同じなんです。壁にボールを投げて返ってくると楽しくて、上手に投げて上手にキャッチできるとさらに楽しい。同じです。喜んでくれるだろうという行動をとって、相手が喜んだら楽しい。

誰にせよ相手が喜んでいることは感知できましたし、相手が喜んでいることはよいことだと認識していましたから、他人がNPCだからといってどうでもいい扱いをしたわけではありません。NPCであろうとなんだろうと、喜んでいるほうがいい。悲しんだり怒ったりしていてほしいわけではない。

 

 

たとえば、わかってくれる、という概念そのものがありませんでした。

わかってほしい、わかってくれなくたっていい、わかってくれるはず、わかってくれるはずがない、全部、思いつきもしない。だから言わなかったこともあります。

「説明すればよかったのに」

「いわれてみればそうだね」

「説明しなくてもわかってくれると思ってた?」

「いまでもわかってないね、それは確実」

説明してもわかってくれない、ではないんです。説明しなくてもわかってくれる、でもないんです。相手が自分について理解するという概念そのものが、ない。

 

いまでも、「自分を」理解してもらうということばには抵抗があります。一つ一つの考えについては、たとえばこの文章をわかりやすく書こう、みたいに、理解を求めることができる。しかし、自分について理解してもらう、となるとよくわからない。検討した上で無理だろうと推定するのとは違います。たんにピンとこない。

他人についてもそうです。他人の話をよく聴いて、どう理解したか返すと、「わかってくれた!」と感激されることがあります。いやその話については理解したとは思いますしパターンもある程度分析したとは思います、しかし、あなた自身を理解したとはどういうことですか、と、とまどってしまいます。

 

 

自他境界ということばに、ずっと違和感がありました。境界というからには、自分と他人は同格のプレイヤーである必要があります。プレイヤーとNPCの間にある距離は、境界とは呼ばないと思います。

自分とごっちゃにしているのとは違うんです。自分じゃないことくらいは理解している。自分とは違う考えを抱いていることは、かなり幼いころから漠然と認識はしていました。NPCは、自分とは違うプログラムで動いているかもしれない。そりゃそうですよね。読書の成果かもしれません。本には、自分の知らないことが書いてある。自分の知らないことを知っている人はいる。

でもその「自分とは違う」は、プレイヤー同士の場合とは違うのではないかしら。それだけです。

 

 

NPCだからどうでもいい扱いをする、というのとは違います。茶碗は割れないほうがいい。大事な茶碗ならますます、割れないほうがいい。きれいに洗って、きちんと梱包して箱に入れます。同じことです。怒らせたり悲しませたりはしたくない。喜ばせたいし、しあわせでいてほしい。

 

 

ここでわたしに欠けていたのは、他人の「意図」についての認識です。二人称としての他人といってもいいかもしれません。わたしに対して、二人称を使う人たち。自分が何かをしたときにだけ反応を返し、それ以外の時間は自分と関係ない世界で関係ない生活を営んでいるNPCではなく、自分が相手に対して何もしなくても自分に注目しているかもしれない他人。自分に向かうベクトルといってもいいかもしれません。

 

わたしを見ている人がいたり、わたしについて何かを思う人がいたり、わたしを理解しようとする人がいたり、わたしに何かを期待する人がいたり、わたしを使ってどうこうしようという人がいたりする、そういう可能性に気づいたのは10歳くらいでした。混乱して病みました。その話はいつか書くかもしれません。

 

いまでも、他人の意図みたいなものには鈍感な自覚があります。

 

 

最後に。

虐待されていたわけではありません。それだけは絶対ない。母親は定型発達、父親はASDであったと思われます。どちらからも十分な愛情を受けて育ちました。知的な発達は非常に速かったです。他人の表情も、ある程度読むことはできました。少なくとも、相手が喜んでいるか悲しんでいるか怒っているかくらいは判別できました。

生育過程で何かが欠けていたわけでなくとも、学習し損なうことはある。たぶん、障害なんだと思います。

「マルチタスク」が意味するもの。

作動記憶(WM)が高いということはマルチタスクが得意なはず、マルチタスクが苦手なので作動記憶(WM)が低いんだと思います、とかいうじゃないですか。あれ、どうしてそう広まったんでしょうね。作動記憶(WM)は「頭の中の作業テーブル」であるというたとえのせいでしょうか。

 

 

マルチタスクってなんだろう、と考えたんです。

ひとつは、実際同時に何かする、ですね。同時にってなんでしょう、走りながら水を飲むみたいなことかしら。

 

 

二番目は、工程表を組んで作業を行い、作業時間が一部かぶりつつ、出来上がりが同時になるように調整すること。料理はそうですね。味噌汁と煮物と炒めものが同時に出来上がるように、煮物を煮ながら炒めものの材料を切ったりする。厳密には、煮物を煮ているのはコンロです。「同時に」作業しているかどうかと言われるとそういうときもありつつそうでないこともありそうです。

これは、進捗に応じた予定の組み換え能力も漠然とさしていることがあります。プロジェクトが遅れているときに、どの作業が遅れているか分析して、追加で人員配置する、みたいなことですね。

これには、作動記憶(WM)が関わっているかもしれません。予定の組み換えとかかなり複雑な思考で、最初の工程表は紙に書いてじっくり考えても間に合いますけれど、細かな組み換えは頭の中でやってしまったほうが速いしスマートでしょう。複雑な思考を頭の中であれこれ、というのは作動記憶(WM)のはたらきです。

 

 

三番目は、割り込みに強いか、です。電話がかかってきた、いますぐ来いって言われた、バスが運休、あれあの人今日休みなの? みたいなことですね。予定を完璧に組んで、自分の進捗に応じて多少組み替えられる人でも、こういう、自分以外が原因の突発事態に対処するのに苦労する場合があります。

突発事態に対処する苦労というのは、実際予定がガタガタになり何もかも終わらなくなるという以外にも、リカバーに自分でも驚くほどのエネルギーが必要、ということもあります。わたしはこれですね。

 

 

もう一つは、注意の切り替えです。

たとえば上の料理でも、煮物が煮えてるかなと確認したり混ぜたりと、炒め物の材料を切ることは、いったりきたりしていますよね。煮物をコンロにかけてコンロに任せっきりにしたままだと、焦げたりします。オーブンなら大丈夫かな。西洋風。それはさておき、一見同時の作業も、いったりきたり、のことが多いです。

周りの進捗を見ながら作業する、もこっちですね。周りを見渡して進捗を確認して、自分の作業に戻り、速度や丁寧さを調節する。自分の作業だけに集中して、スピードが速すぎて、一人だけ終わってしまう人がいます。それでいいことも、あんまりよろしくないことも、両方のケースが考えられます。

 

 

まとめると、作動記憶(WM)はマルチタスクの一部には関わっているけれど、全部ではなく、「マルチタスクができなくて困ってます!」という訴えは実際それが何を指しているのか分析の余地があるということですね。「作動記憶(WM)が高いのにマルチタスクが苦手とか言ってる」みたいに、一般的なイメージとなんとなく食い違うときには、詳しい分析は有用だったりします。