自分と相手の境界。

自閉症の現象学 第2章です。

 

他人が自分を見ているというベクトル(方向性、矢印)に気づくのが視線触発でした。

さて、見られた自分の側には、緊張や安心感、身体の動きが発生します。(見られているだけでは身体の動きはなかなか発生しません。しかし、たとえば抱き上げられれば発生しますよね)。

見られた自分の側に感情や運動が発生する

 +相手からのベクトルが存在し、自分と相手は等価ではない

→ 自分と相手の間には仕切りがある!

 

……ここまできてやっと、自分と相手との仕切りが発生しました。自分と相手は違う人になったわけです。

 

 

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さて、自分と相手の間に仕切りができました。この仕切りが動いた場合、自分が変形するだけでなく、相手も変形します。つまり、自分の感情や運動が自覚できるときには同時に、相手の感情や運動が感知できるということになります。この、「自分と相手の感情や動きを、仕切りのところで両方同時に感じ取っちゃうよね」というのを間身体性といいます。キーワード。

完全にわかる、というよりは下書きみたいなもので、今後動きうる範囲を決定するみたいな話のようです。たぶんネガティブな感情だ、とか、さすがに自分の後ろには回り込まなそうだ、とかなんとか。

で、相手の感情や運動を直接感じ取るといっても、「自分は相手の感情や運動を直接感じ取ったぜ」と思うわけではありません。実際には、表情や身振りを感じている、というのが本人の認識になります。

 

 

下書きといいました。今後動きうる範囲の決定ともいいました。

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よくわからないものって怖いんですよ。なんだかわからない生物に襲われる映画とかときどきありますよね。というわけでこの間身体性は、多少分析? されて「なにがなんだか、ちょっとはわかる」ということになります。この、「わけがわからない、ってほどではなく、輪郭とかが多少はっきりしたしわかるような気がする」というのを組織化といいます。

定型発達の人では、視線触発と組織化はだいたい同時に起こります。

自閉症の人では、視線触発は起きて間身体性も発生したけど組織化は起こっていないことがあります。これはつまり、相手の存在には気づいたけれどもどのような感情を持っているかわからず、次に何をするつもりなのかもぜんぜんわからないということであり、表情や身振りがぜんぜん読めない、ということでもあります。これ、怖いです。わけのわからないものが迫ってくる(視線触発は自分に向かってくるベクトルでしたよね)わけですから。というわけで視線恐怖とか起きたりする。

 

 

視線触発は起きたけど間身体性が発生していない場合、自分と相手がいまいち区別できていないという事態が発生します。自分と相手の仕切りが薄いところに相手から何かが向かってくる(間身体性が発生していない場合組織化も発生していないので、相手から向かってくるものはなにがなんだかわかりません)わけですから、これはかなり怖いです。

組織化が微妙な場合、相手の感情や意図(今後の運動の方向性)がいまいち読めない、という事態が発生します。わたしも含めていますよね、こういう人。

自分と相手の間に発生する感情には、親しさとか敵意とかの「関係」が含まれます。自分と相手の感情がいまいちわかっていない(組織化が微妙)場合、自分と相手の関係がよくわからないということにもなります。自分と相手の物理的距離というのは文化でだいたい規定はされていますけれど、そのベースにはこの感情的な距離があるので、感情的な距離が測れないということは物理的な距離も間違えがちということで、いろいろ謎に無礼だとか怒られることになります。わたしのことか。

 

 

定型発達の人の場合は、他者の感情を類推する前にすでに(正解かどうかはさておき)感じ取っているというか否応なしに感じてしまう、同様に、相手の緊張や運動の方向性についても考えるまでもなく感じ取り、考える前に反応しているといいます。これらが出生後早期にインストールされる。これに対して自閉症の人では、この「感じ取る」能力は、わりとゆっくりと、段階的に進化するようなのです。

 

 

いまのところ、相手から自分へ向かってくるベクトルは認識して、相手と自分との仕切りも発生しました。「相互」関係に足りないのは、自分から相手へのベクトルですね。これはまた、後の章で扱うようです。

 

じつをいうと読んでいるのはここまでなので、3章以降もがんばります。