作動記憶(WM)と処理速度(PS)の関係について。

作動記憶(WM)と処理速度(PS)については、台所をたとえとして使うことがあります。

・作動記憶(WM)→ コンロの数

・処理速度(PS)→ 調理の速度

とします。

 

さて、料理をしましょう。味噌汁と炒めものを作るとします。

コンロが2つあれば、同時に作ればいいですね。

コンロが1つであれば、一つずつ作ることになります。

 

 

このコンロの数が、作動記憶(WM)の高い低いです。作動記憶(WM)が低い場合、たとえば次の話に移ったときに前の話が抜けてしまう。これ、忘れてしまうのとは違うんです。できあがった味噌汁はきちんとテーブルの上にあります。消えてはいない。

あわてると、味噌汁を火にかけている上に炒め物の中華鍋を置こうとしたりして混乱します。この場合も、どっちも消えてはいない。ただ、どっちも、上手にできるかはかなり疑問です。これで自分に腹を立てる人がいますね。

また、たとえば2つの味の煮物を作りつつ、味を比較するには、コンロは2つあったほうがいいです。コンロが一つで、できあがった煮物がすでに食卓に運ばれてしまっていると、比べるのが難しくなります。同様に、作動記憶(WM)が低いと、複数のものごとを頭の中だけで比較することが難しくなります。書いたり作動記憶(WM)が高めな人に聞いてもらうなりして頭の外に出してしまえば大丈夫です。テーブルの上に完成品を両方置けば、両方味見して比べられますよね。そんな感じです。

 

 

処理速度(PS)は、調理のスピードです。炒めものと味噌汁を作るとして、素早く作ればコンロが1つでもあまり問題になりません。ただ、ものすごく凝った味噌汁を作っていると、炒めものが冷めちゃうかもしれません。単純なものであればたいてい間に合う。

調理が遅い場合、遅くて怒られることはたぶん多いですよね。なので、あわてて調理する傾向がある人が多く、当然ながら、あわてて調理するとあんまりおいしくない料理になったりします。焦らなくていい環境で調理したいところです。

 

 

単純な記憶力は冷蔵庫かなあ。冷蔵庫から食材とかキープしたはずの料理とかが消えるのが認知症。言語理解(VC)や知覚統合(PO)は、仕入れる材料や出来上がる料理のクオリティに関わっている気がします。どうでしょう。

 

超健康幻想について。

超健康幻想ということばがあります。「この病気や障害さえなければ、完璧にしあわせで順調な生活が送れるはず!」「この病気や障害がない人は、完璧にしあわせで順調な生活を送っているはず!」という幻想のことです。こうやって書くといかにも幻想ですね。しかしよくあります。

ちょっと古いことばで、精神医学公式用語、ってほどのものではないので、検索しても出てくるかどうかは自信ないです。

 

 

健康が一番、という考えかたはあります。健康のありがたみがわかった、という人もいます。それはそれでいい。しかし、その人たちは、たとえば病気になるまでの間、完璧にしあわせで順調な生活を送っていたのでしょうか。たぶん違うと思います。

完璧にしあわせで順調な生活を送っていたわけではない人がなんらかの病気にかかり、そして治ったとして、とつぜん完璧にしあわせで順調な生活が始まる? そんなわけはありません。

 

 

超健康幻想を持ち続けて、病気が治って多少幻滅するだけなら別にいいんです。

問題は、超健康幻想のかげにある、「病気・障害が治る/治らない」の二分法です。

この二分法があるから、「この病気や障害さえ『なければ』」という言い方が成り立つんですよね。病気が多少軽くなったら、とか、障害が理由の問題が多少解決したら、とかではない。病気や障害が、消えてなくなることが想定されている。

 

 

多くの病気は、そう簡単に消えてなくなりはしません。消えてなくなるとしても、時間がかかりますし、そもそも、消えてなくなることが期待しづらい病気もあります。障害についても、同様です。

これ、消えてなくなることを希望するだけならいいんですけど、消えてなくなること「だけ」を期待するようになると、ややこしいことになります。多少の改善、ちょっとした工夫が、受け入れづらくなるんですね。たとえば、生活リズムを整えるために、まずは午後10時に睡眠薬をのみましょうか、という提案をするとします。「それでこの病気は完治しますか」「完治はしません」「それでは意味がないので、完治する薬をください」とかになるんですよね。

そう、病気や障害を消す? 薬やサプリを探す人の中にも、超健康幻想にとりつかれている人たちがいます。目の前にできることがあっても、それには目を向けず、新薬とか治験とかの情報を探し続けてしまったり。

 

 

超健康幻想は、支援者の中にもあります。

「この病気さえなければ、完璧な人格とすぐれた知識、深い人生経験などによって大いに社会貢献し、本人も周囲も非常にハッピーになるはずの人」を支援しているという自己暗示ですね。病気になる前にそんなパーフェクトな人だったのかというと別にそんなことない。しかしそういう自己暗示をかけてしまう。

これもね。うまく行かないことが多いです。幻想ですものね。行きすぎた支援の背景に、この超健康幻想があるケースも散見されるように思います。

 

 

(目下の問題)さえなければ、とつい考えるのは、たぶんふつうのことなんですよね。一気に手軽に問題を消し去りたいというのも、自然なことなんでしょう。そこをこらえて目の前のことに注目しコツコツやっていくのは、病気や障害の人だけでなく、支援する側にも必要なことですよね。自戒を込めて。

うつだった15年間のこと。

すこし昔のこと。

わたし、20代後半から30代にかけて15年くらい、うつだったんですよね。うつ病と言ってもいいんですけれど、専門用語としては本来はうつ病とちょっと違うので、そのへんは謎の専門家的こだわりを発揮して「うつ」としておきます。遺伝的な問題が大きく、何かがあったとかではありません。ASDとも直接の関係はないです。

 

 

正直言って重症でした。重症のうつ病とその仲間たちにおいては、記憶が定かでなくなります。わたし自身もそうでした。記憶は、きわめて断片的です。というかほぼない。

記憶障害の一因は、当時、「思い出す」という行為そのものがフラッシュバックの嵐を呼び起こしていたことです。思い出すという行為がぜんぶ、できないわけです。何かを思い出そうとするとフラッシュバックが巻き起こりそもそもの思い出そうとした記憶を吹き飛ばしてしまう。すこし回復して、小学校時代のことを思い出せたとき、なんかすごくうれしかったです。

 

 

あれでよく出勤していたというか職種を考えるに出勤しちゃダメだろう、と思うのですけれども、出勤していた日もありました。休職期間もありましたし、行けない日も多かったです。行けないというのは、家から出られないならまだしも、布団から出られないということがしばしばありました。精神運動抑制といいます。布団をかぶって寝ていたい、ではなく、布団の上に寝たまま動けない、です。頭も身体も動いてない。

患者さんによれば、「あずさ先生幽霊説とかあったんだよ、だってときどきしかみかけないし」だったんだそうです。各方面に申し訳ないことをしました。いや、笑い事ではないのはわかってるんです。きちんと出勤できるようになったからこそ、ことの深刻さが身にしみてきたというか。

 

 

副作用も強くて、体重が20キロ増えて30キロ減り、そして15キロ増えて現在に至ります。何をどう考えても食べる量は減っているし運動も増やしているのに体重が増えるとか、何をどうやっても半人前も食べられないとか、自分の身体が自分の言うことをきかないというのはしんどいですね。

薬が強かったため、一日うっかり忘れると手が震えて文字が書けないなどの離脱症状が出ていたこともあります。何より一日ぼんやりしていました。のちによい薬が手に入るようになり、ぼんやりする薬は処方から削除してもらいました。

 

 

そうはいってもこの職場に来て4年、何もかもが順調というのからはほど遠いにしても一日も休まず出勤して働いております。4年の間には、元気になった患者さんもいます。薬を含めた治療の成果でもあり、ようやくパワハラのない職場にたどりついたこともあり、いろいろな事情があります。病気していなければ、と思うことはあります。しかし、事実はどうにもならない。

 

 

こういう経験があるから病者の気持ちがわかるとかいいたいわけではありません。それだけは絶対にない。それは、使ってはいけないカードであると認識しています。

 

 

むしろ、病気って、ひたすら失うものばかり多いんです。まず、年齢相応の経験。医者の世界は年功序列制なので、年齢と経験が釣り合っていないとおたがい気まずかったりします。経験と同様に問題になるのが、資格です。医師免許は持っていますけれど、他の資格がおっつかない。重要なものから取ってはいますけれど、ほんらいこれ、医者になって5年目とかで揃える資格なのよね、とか思い始めるとつらくなります。「まともな精神科医ならこれこれの資格があるはず」とか書いてあるのを見るとぐさっときます。わたしにあてて書かれたものじゃない、そんなことわかってるけど。

人間関係もそうですね。リセットされてます。連絡とるどころじゃなかったです。

そして、いちばん困るのが、無理ができなくなったこと。いや、できるのかもしれませんけれど、怖くてしかたないのです。またあの日々にもどる可能性がある、と一瞬よぎった時点で動けなくなります。

 

 

よくいままで生きてるよね、とか思うことが、いまでもあります。

処理速度(PS)と作動記憶(WM)のかかわり。

処理速度(PS)について。重要な点は、これが「処理」速度=単純作業の速度に近い数値であるということです。頭の回転の速さを直接測っているわけではないんですよね。

 

 

処理速度(PS)だけがものすごく高く、他がそうでもない場合、頭の回転が速い、という印象ではないことがあります。単純作業は速いです。検品とか。手の動きもついていくなら、箱折りとかね。

処理速度(PS)が高い人にも、手の動きがついていく人とついていかない人がいます。

手の動きがついていく場合は、板書を写すのが速いので、学校の勉強についていきやすかったりします。

 

 

手の動きがついていかない場合であっても、この処理速度(PS)は、作動記憶(WM)を補う働きをします。作動記憶(WM)は頭の中の情報仮置場ですよ、といっても、置いておける時間はかぎられているので、処理速度(PS)が速いほうが多くの情報を扱えます。

そうはいっても、処理速度(PS)が低くても、ものごとをじっくり考える件についてはあまり支障はありません。たとえばTwitterなど、文章を書く場合には支障はなかったりします。

 

 

作動記憶(WM)がものすごく低くて処理速度(PS)がものすごく高い、という極端な場合、いっぺんに一つのものごとだけ考えて、その件は終了させて次、というのを超高速で繰り返す、ということになります。単純な内容を考えるのであればこれでいい。しかし、複雑な内容(たとえば比較など、いっぺんに複数の情報を扱う場合)を扱うのが困難で、しかし次から次へと素早く考えが進みそして周りが動く前に行動に移して、「考えが足りない!」とか怒られる、という人もいます。衝動性が高いと、事態は悪化します。

 

 

処理速度(PS)と作動記憶(WM)が両方高い場合、「あたまのいい」印象が強いです。ADHDなど脳内が多動? で処理速度(PS)も作動記憶(WM)も高い場合、高速で試行錯誤を行って奇抜かつ有効なアイディアを考え出すという天才みたいな人もいます。高性能なコンピュータですね。メモリも十分、速度も速い。将棋も最近は、コンピュータのほうが強かったりするのでした。あれも試行錯誤。

ただ、素敵なコンピュータも、アプリの品質が高くないとあんまり役にはたちません。アプリの品質には、言語理解(VC)と知覚統合(PO)がかかわってきます。そうはいっても、アプリの品質向上には処理速度(PS)と作動記憶(WM)が高いほうが便利、などなど、このへんも個々人の状況に合わせた分析が必要です。

 

 

処理速度(PS)だけが極端に低い場合、制限時間内に終わらず怒られることが増えます。また、教えてもらう時間・習得にかけられる時間は多くの場合有限なので、時間内に習得できず怒られることがさらに増えます。このため、怒られすぎて萎縮してしまい焦ってうまく行かないケースがあるように思います。

他の能力が高い場合、(ここまで習得しているということは)これからの習得についても速いはずだ、と期待されてしまい、よけいに「真面目にやれ」とか怒られてしんどい思いをするケースもありそうです。時間さえかけさせてもらえれれば習得できるのに、ということもあるのではないかと。

「ひとつだけ」低いのって、他からの類推で期待が高くなってしんどい思いをしがちな気がします。

 

 

処理速度(PS)が低い場合、板書を写す前に消されるなど、焦らざるを得ない経験が積み重なっていることがあります。ほぼ例外なく、「時間を測る検査で焦ってしまい、実力が出せない」印象です。その検査の能力に比して速度が遅いから点数が低い、というだけではなく、焦ってしまってミスが増えている。このへんは、実生活の状況をたずねつつ、性格も勘案しつつ、分析することになります。

また、ADHDの人など不注意で困った経験の多い人は、ケアレスミスを防ぐために慎重になり、処理速度(PS)の検査でほんらいの速度より遅い、ということになってしまったりします。

 

このへんが、点数だけ気にするのはやめてほしいという理由です。点数が、いろいろな事情で変わってしまうからです。

 

 

知能検査は、かなり複雑です。これまで書いてきたことも、本来は一つ一つのテストをを含むいろいろな情報(数値だけでも、組み合わせはほぼ無限)を含めて解釈すべきことであり、本人の事情とか困難とかと照らし合わせた上で最終レポートを作成する必要があります。なので鵜呑みにしないでくださいね。

ラベルとしての診断名。

本には、タイトルと本文がありますよね。忙しい人はタイトルだけ見るかもしれない。興味関心のある人は本文も読むかもしれない。本文にまとめがついていた場合、まとめまでなら読む人と、全部読む人との両方がいそうです。

 

 

診断名(病名/障害名)って、この「本のタイトル」にあたる気がするのです。たとえば役所の人は忙しいですから、タイトル(=診断名)を必要としている。全員の本文を読むとか無理ですものね。そのいっぽうで、本人は自分のことだから本文を全部読むことでしょう。本文とはなんでしょう?

 

 

この場合の本文は、たとえばこんなことだと思います。わたしの場合↓

「わかりやすいASD特性はあったけど知能が高かったので見過ごされてかつ許されて、父親も同類だったので特性はさらに育てられ、医者になるあたりで他人に通じないことばで話していることに気づき、精神科医となった後にASDの概念を知った」とかになりましょうか。まとめ方はいろいろあっていいと思います。もうちょっと長く・詳しく語ることももちろんできます。別の軸でまとめることもできます。得意不得意とか。

 

 

自分の人生についてまとめ、語り、自分で納得すると、たいていの人は少し気持ちを強く持てるようになります。安心して生活できるようにもなります。そりゃそうですよね。「わたしってどういう人間なんだろう」がさっぱりわからなければ、当然不安ですから。

その語りを、たとえばASDの3文字でまとめてしまうのは、もったいないように思います。ASDの3文字が厳密に正しいかを追求するのもいいんですけど、同時に、自分自身の語りをブラッシュアップするのもよいかなとか。

 

 

昔、精神科医になりたてのころ、「診断名は単なるラベルだし、診断名を聞かれるということはこれまでの経緯の説明や今後の見通し、治療方針等に納得がいってないということだから、それは主治医としては負けだ」と教わりました。いまでもそう思って診療にあたっています。

ASDと論理性。

診察場面で、「問題を切り分けましょう」とかよく言います。場合分けですね。「理解」には「分解」の「解」の字が入っており、「わかる」は「分ける」です。分解することだけが考えることではないけれど、分解するとものごとはずっとわかりやすくなります。

 

 

最近は、MECEとかいうことばがあるのだそうですね。Mutually Exclusive, Collectively Exhaustive。モレなく、ダブリなく。

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これ、高校で習った樹形図でも実現可能です。こっちのほうがわかりやすい人も多そうです。診察場面ではよく描きます。

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ASDの人は、問題を切り分けるアプローチになじみやすい印象です。論理性の高い人が多いからでしょうか。論理性は抽象能力と深く関連しています。抽象というのはこまごました枝葉を取り除くということです。対人関係とか(対人関係そのものが対象である時を除き)そのほとんどは枝葉ですから、対人関係の扱いが比較的苦手な人は論理性を育てやすいのかもしれません。

また、筋が通らないこと、通せないことに敏感な人、「そのへん適当に」「ケースバイケースでしょう」が苦手な人も、論理との相性はよいと思われます。

 

問題を切り分けるというのは、多くの場合は場合分けです。

 

 

ASDの人で、フェア/公平な印象を与える人は多いように思うのです。その理由の一つが、「場合分けが得意」なのかな、とか。場合分けが得意ということは、全部まるっとまとめて決めつけたりしない、ということですものね。

一回興味を持てば根気よく取り組める、というのもあるかもしれません。きちんとした分類には根気がいります。

また、細部まで注意を払うことも必要です。ASDの人の描く絵は、すみずみまで描きこまれている傾向があるとどっかで読みました。


多数派の人でももちろん論理的だったり分類や場合分けが得意だったりする人はいます。傾向の問題です。

 

 

切り分けや場合分けの能力と、それらをわかりやすくアウトプットする能力は別です。図でもことばでも何でもいいんです。お好みで。

ASDの人でも、アウトプットの能力は人によるようです。アウトプットは練習で伸ばしやすいところです。アウトプットやプレゼンを磨いて、他人にも上手に伝えられると、活躍の場は広がるのかもしれないと思ったりします。

「ASDは治る」というフレーズ。

ASDが治る治らないの議論になることがときどきあるように思います。治るというのが、ASDの特性が消滅するという意味なのか、ASD由来の問題が解決するという意味なのか、いまひとつ不明なことも多いです。「治るって何」とか考えてしまったりします。

 

 

ASDは治る」というのは、「うつ病は治る」とは違います。似ている点もあります。

 

 

うつ病は治る」というのは、主に治療を始めていない人へのメッセージです。治療を始めていない人に、治療をすればよくなるから治療しようね、と呼びかける。実際、うつ病の治療で快方に向かううつ病の人は多いですから、この呼びかけは正当です。うつ病を放置して悪化しても困るので、この呼びかけは必要でもあります。

しかしこの「うつ病は治る」で傷つく人もいます。うつ病の治療が難航している人たちです。治るはずのうつ病が治っていないというのはどういうことだろう、と悩んでしまうわけです。自分のせい? 主治医のせい? それとも? 追い詰められ、そして焦りが増える。あせりは、うつ病には害になります。正直よろしくない。

そうはいっても、「うつ病は治りますから根気強く治療しましょう」という励ましが必要な場合もあります。このへんは難しいところで、主治医との信頼関係が必要だったりします。

 

 

ASDは治る」というのも、この、治療の難航しているうつ病患者さんにとっての「うつ病は治る」に近いものがあるように思います。治ると言われても困る、こんなに努力しているのに解決してない、これ以上何をどうしろっていうの。(でもでも、治るというなら、かなり怪しい治療でもやってみなくもないけど。)追い詰められる、焦る。

さらに、うつ病と違い、「ASDがない状態」にはならない可能性が高い。問題は解決するかもしれません。一部の特性はひょっとしたら消えるかもしれません。しかし、ASDの特徴がすべて、きれいさっぱり消滅して多数派に生まれ変わるというのは考えづらい。

 

 

ASDについては、特徴がきれいさっぱり一つ残らず消滅することは考えづらいです。しかしながら、一部の特性が消える可能性はあります。ASD由来の問題が解決する可能性はもっと高いです。

ひとつの問題が解決するとして、それは本人の努力かもしれない。ちょっとした工夫かもしれない。環境調整かもしれない。問題は解決するとして、本人の苦労や負担が大きいケースもあるでしょう。それを解決と呼ぶかどうか。また、何をどうやっても残る問題も、あるかもしれません。

ASDについて状況を改善するとして、できるとして、改善のレベルはさまざまです。それぞれの人について、それぞれの特徴について、細かくみていって、分類して、判定して、努力・協力・援助する必要があります。

この「細かく見ていって」には、支援が必要なことが多いです。しかしそれ以前に、一歩引いて、俯瞰して見る必要があるように思います。そして一歩引くためには、気持ちの余裕が必要です。

 

 

まずは余裕を持つための支援かなあ、と思ったりして。どうでしょうね。