他人のいない世界のこと。

10歳ごろまでのわたしの世界には、他人がいませんでした。

ネグレクトとかではないですよ。人間はいましたし、大事にされていたと思います。厳密な意味での他人=自分と同格のひとたち、です。親族を含めて。

 

 

自分と同格でないというならなんだったのか。王様扱いか。

違います。NPCですね。今風にいえば。

親を含めた誰とも、厳密な意味での人間関係はなかったと思います。

 

 

よくしゃべるこどもではありました。

しかしそれは、ことわざ辞典を読み上げるのとまったく同じだったと思います。ことわざ辞典で新しいことを知るのは楽しい。故事成語も載っていましたから、正しく読めばテンポがいい。リズムのある文章は読み上げると楽しい。そして、親は喜んでくれる。頭がいい子だ、とかなんとか。

 

喜ばせようとしているなら人間関係はあったんじゃないか、って、違うんです。これ、壁にボールを投げて返ってくると楽しい、というのと同じなんです。壁にボールを投げて返ってくると楽しくて、上手に投げて上手にキャッチできるとさらに楽しい。同じです。喜んでくれるだろうという行動をとって、相手が喜んだら楽しい。

誰にせよ相手が喜んでいることは感知できましたし、相手が喜んでいることはよいことだと認識していましたから、他人がNPCだからといってどうでもいい扱いをしたわけではありません。NPCであろうとなんだろうと、喜んでいるほうがいい。悲しんだり怒ったりしていてほしいわけではない。

 

 

たとえば、わかってくれる、という概念そのものがありませんでした。

わかってほしい、わかってくれなくたっていい、わかってくれるはず、わかってくれるはずがない、全部、思いつきもしない。だから言わなかったこともあります。

「説明すればよかったのに」

「いわれてみればそうだね」

「説明しなくてもわかってくれると思ってた?」

「いまでもわかってないね、それは確実」

説明してもわかってくれない、ではないんです。説明しなくてもわかってくれる、でもないんです。相手が自分について理解するという概念そのものが、ない。

 

いまでも、「自分を」理解してもらうということばには抵抗があります。一つ一つの考えについては、たとえばこの文章をわかりやすく書こう、みたいに、理解を求めることができる。しかし、自分について理解してもらう、となるとよくわからない。検討した上で無理だろうと推定するのとは違います。たんにピンとこない。

他人についてもそうです。他人の話をよく聴いて、どう理解したか返すと、「わかってくれた!」と感激されることがあります。いやその話については理解したとは思いますしパターンもある程度分析したとは思います、しかし、あなた自身を理解したとはどういうことですか、と、とまどってしまいます。

 

 

自他境界ということばに、ずっと違和感がありました。境界というからには、自分と他人は同格のプレイヤーである必要があります。プレイヤーとNPCの間にある距離は、境界とは呼ばないと思います。

自分とごっちゃにしているのとは違うんです。自分じゃないことくらいは理解している。自分とは違う考えを抱いていることは、かなり幼いころから漠然と認識はしていました。NPCは、自分とは違うプログラムで動いているかもしれない。そりゃそうですよね。読書の成果かもしれません。本には、自分の知らないことが書いてある。自分の知らないことを知っている人はいる。

でもその「自分とは違う」は、プレイヤー同士の場合とは違うのではないかしら。それだけです。

 

 

NPCだからどうでもいい扱いをする、というのとは違います。茶碗は割れないほうがいい。大事な茶碗ならますます、割れないほうがいい。きれいに洗って、きちんと梱包して箱に入れます。同じことです。怒らせたり悲しませたりはしたくない。喜ばせたいし、しあわせでいてほしい。

 

 

ここでわたしに欠けていたのは、他人の「意図」についての認識です。二人称としての他人といってもいいかもしれません。わたしに対して、二人称を使う人たち。自分が何かをしたときにだけ反応を返し、それ以外の時間は自分と関係ない世界で関係ない生活を営んでいるNPCではなく、自分が相手に対して何もしなくても自分に注目しているかもしれない他人。自分に向かうベクトルといってもいいかもしれません。

 

わたしを見ている人がいたり、わたしについて何かを思う人がいたり、わたしを理解しようとする人がいたり、わたしに何かを期待する人がいたり、わたしを使ってどうこうしようという人がいたりする、そういう可能性に気づいたのは10歳くらいでした。混乱して病みました。その話はいつか書くかもしれません。

 

いまでも、他人の意図みたいなものには鈍感な自覚があります。

 

 

最後に。

虐待されていたわけではありません。それだけは絶対ない。母親は定型発達、父親はASDであったと思われます。どちらからも十分な愛情を受けて育ちました。知的な発達は非常に速かったです。他人の表情も、ある程度読むことはできました。少なくとも、相手が喜んでいるか悲しんでいるか怒っているかくらいは判別できました。

生育過程で何かが欠けていたわけでなくとも、学習し損なうことはある。たぶん、障害なんだと思います。