小学生はうつ病になりうるのか。
ツイッターで、小学生はうつ病にはならないと言っている人と、うつ病になると言っている人の両方を見かけました。
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うつ病の定義の問題だと思います。古典的な定義と、最近の定義。
古典的な定義におけるうつ病↓
・どっちかというと身体(神経)の病気、体質。体質>環境(状況/事情)
・性格に特徴がある。責任感が強いなど。
・きっかけもだいたい判明はしている。昇進や引っ越しなど。
・しかしきっかけと症状がつりあわない。病気の前はわりと楽しくやっていたりする。
・環境調整も要るけど、薬も重要。薬が非常に効く。
・薬が効いた上で、再発予防として環境調整や考えかたへの介入。
・たいていは、社会人になって責任(役割)を引き受けてから起きる。
・社会に出て、自分の役割と責任がきちんと定義されてから起きることが多い。
その一方で、うつ病の症状がそろっていればうつ病と呼ぶ、というのが最近のトレンドです。
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体質的・性格的にもうつ病にはならなさそうで、状況と症状が釣り合っていて、うつ病の症状がそろっている場合もあります。「適応障害」と呼ぶことが多いです。環境がハードだったり、環境との相性が悪かったりしたら誰でも病むよね、という感じです。皇后陛下もそうですね。心身ともに健康で立派なおかたであると拝察しますけれども、皇室という特殊な環境になじむのに苦労なされた。
薬が必要なことが多いですけれど、環境を変えたり、環境となじむ努力/助力をするほうが大事です。皇后陛下も最近は元気な姿をお見かけすることが増えました。努力もされたのでしょうし、ひょっとしたら皇后というお立場の方が、皇太子妃というお立場よりも向いていらっしゃるのかもしれません。
環境が「誰がどう考えても悪い」場合と、環境と本人の「相性が悪い」場合があり、この区別と対策も問題になってきます。誰がどう考えても悪い場合は逃げるしかないのですけれど、相性が悪い場合にどこまで努力するか。本人の希望とか特性とか、期間限定かどうかなども考える必要があり、若いうちは将来の選択肢などに関わってくることも多く、難しい問題になりがちです。
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個人的には、うつ病(中核群は、メランコリー親和型うつ病とか、内因性うつ病と呼ぶことがあります)と適応障害は分けておきたいです。対策が異なるからです。
もちろん、その中間というのは存在します。また、うつ病と適応障害の一般的なイメージはそれぞれ異なるので、迷う場合にどちらと呼ぶべきかはケースバイケースです。
自分の知らない絶対的なルールがあるという無力感について。
先生が多数派で、生徒がASDの場合、そのASDの生徒はしんどい目にあいそうです。論理が苦手で、感情豊かな先生であればなおのことでしょう。以下、わたしの過去からの分析です。
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多数派の先生としては、立場が上である先生が喜ぶから、あるいは、先生が怒ったり悲しんだりするから、生徒はルールなどを学習するのだと信じています。自分自身がそうやって学んできたからです。自分自身がそうやってルールなどを学び、よい生徒として学生時代を過ごし、大学まで進んで教師になったわけですから、先生としてはこの指導法に自信を持っています。
というわけでその、自信を持っている指導法で、生徒を指導します。たとえば廊下を走ってはいけません、としましょうか。廊下を走ってはいけません、と怒るわけです。
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そのいっぽうで、ASDの人は、その指示に筋が通っている、合理的である、ということで指示に従います。学習もします。
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多数派の生徒であれば、先生が怒っているということは廊下を走ることはわるいことであると判断して、廊下を走るのをやめます。指導成功です。
これは、廊下を走ることがわるいことであるかどうか、わるいとしてもどういう理由なのか、は問いません。先生が怒っているからやめておこう、というわけです。
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ASDの生徒が、なぜ廊下を走ってはいけないのか理解できないとします。
先生はなぜ怒っているんだろう、なぜ廊下を走ってはいけないんだろう。たぶん質問します。しかしこれはしばしば、反抗として扱われます。なぜかよけい怒られる。そしてその指導は学習されない。指導失敗です。
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ASDの生徒から見ると、理由や意義のわからない指示を押し付けられ理由は開示されない、ということになります。自分だったら説明するよなあ、と考えます。説明を省略して怒るのはどういうときでしょう。
ASDの生徒であっても、誰がどう見ても説明不要なルールであれば説明を省略するかもしれません。たとえば人を殺してはいけないのはさすがに説明不要だし法律でも決まっているから、そういうことは説明を省略する可能性があります。そう考えると、廊下を走ってはいけないというのは、人を殺してはいけない、というレベルの、道徳的にも法律的にも自明なルールであると結論づけられます。
しかし、この例においては、ASDの生徒は、はそのルールについてまったく知らないわけです。重要ルールについて無知であるというのはかなりまずいことです。
以上より、「先生の背景にはわたしの知らない絶対的ルールがあるんだろう」と仮定するASDの人がいてもおかしくはありません。先生の背景にあるのは、世間とか世界とかよのなかとかです。ということは、世間とか世界とかよのなかに対する無力感ですよね、これ。
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わたしだけかもしれません。しかし、同様の無力感を抱いている患者さんを診たことが、ないわけではありません。超例外である可能性は否定しませんけれど、そういう人もいる、くらいは言ってもいいでしょう。
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だれかが、たとえば「廊下を走ったら他の生徒にぶつかるから、走らないようにしようね」と説明してくれれば、ASDの生徒も安心して指示に従えます。それは先生自身じゃなくてもいい。説明するのは、ASDでも多数派でもいい。じつをいうと、その説明が間違っていても、たぶんかまわない。
説明できないルールもあります。謎の校則とか。それでも、校則には従う必要があると、だれかが諭してくれればずっと楽です。そこに「校則」というある意味恣意的なルール、ひょっとしたら時代遅れになっているルールがあり、それには従うことになっているとすれば、それさえ明らかになれば、「自分の知らない絶対的なルール」ではなくなるからです。
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世界とかよのなかとかが、自分の手の届かない絶対的ルールで回っていると感じるよりも、自分にも理解可能なルール、自分も知ることができるルールで回っていると信じられるほうが、ずっと安心して暮らせるように思います。どうでしょう。
◆◆ 最近のKindle↓ ◆◆
ASDばかりの集団に属していた話。
いま思えばASDばかりだった、という集団に属していた時期があります。それぞれが「変わり者」を名乗っていました。変わり者レベルが高いほど偉い? といういま思えば謎の価値観が出回っていました。
ASDの抱える問題というのは、少なくとも一部は少数派であるというだけのことではないのか、というのは、この経験に基づいている気がします。
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満場一致が「危険」と判定される集団でした。満場一致の場合、全員が間違っている可能性がある。同じ意見同士で盛り上がって間違った方向に暴走したら誰も止められない。理論上はそうですよね。誰でも間違う可能性はあるということは、全員が間違う可能性もある。
たまたま満場一致となると、集団外の定型発達とおぼしき人達に意見を求めたりしていました。軌道修正の可能性と、反省の機会を求めて。
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他人に興味関心がないのが普通でした。嫉妬や足の引っ張り合いとかもなかったはずです。いや、あったのかもしれませんけれど、それは、「気持ちはわかるけどよろしくないこと」ではなく、「理解不能な嫌悪すべきもの、徹底的な非難を浴びてもしかたないもの、かりにそういう気持ちがあったとしても隠し通し自分の中で消化して消すべきもの」であったように思います。
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集団への帰属意識はありました。その「変わり者」集団に属していることは明らかな名誉でした。そして、有事の際には集団を守るという決意はありました。ただ、それは、攻撃されればの話で、攻撃されない限りは(集団の外の人にも興味はないので)特に何もしないのが当然でした。
助け合いもありました。他人への興味関心がないけど助け合いはあるというのが、なんだか不思議な気もするんですけれど、惻隠の情みたいな感じでしょうか。惻隠の情というのは、たとえば目の前でこどもが池に落ちたらそのこどもが誰であろうと助けるよね、みたいなことです。仲間とかそういうのじゃなくても、困っている人がいれば助ける、それだけのこと。
他人への興味関心がないのである意味徹底して自己責任であったとは思います。しかし、自己責任ということばは使われませんでした。あたりまえすぎて言及する価値がなかったのかもしれません。自己責任ということばに含まれる、助けてやらないよ、という排除のニュアンスがなじまなかったのかもしれません。
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リーダーが偉い、とかいうこともなかったです。リーダーという役割の人、というだけ。指示をする人がいて、指示に従う人がいる。そうじゃないと団体行動はとれませんものね。責任ぶんは尊敬されたかな。でもそれは、無条件に偉いとかではありませんでした。
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多少美化しているかもしれません。まあそれは、年長者の特権ということにさせてください。わたしの人格形成にはものすごく寄与しました。社会性は減ったかもしれないけど、いま、ASDでありつつあまり悲観せず人生を送れているのは、この記憶のせいかもしれないと、考えたりします。
Kindleが完成しました。
Kindleが完成しました。
ASD的考えかた(要は少数派ですよ、編)
もくじ
自己紹介(まえがき)
価値判断ではなく少数派多数派
アスペの国の定型族
少数派である件について
◆ 多数派と少数派をひっくり返す
◆ 道徳と人類普遍の原理について
◆ 多数派少数派と優劣の関係
◆ ASDの薬が実用化されたとして
納得すれば指示には従う
◆ 納得の重要性
◆ ルールの前提
◆ ASDの人たちがルールを守り評価が上がった件
弱者についての想像力とASD
◆ ASDは想像力が足りない?
◆ 想像力の種類
◆ 弱者と想像力
支援者はいつも正しいのか
◆ 少数派よりも多数派がすぐれているという主張
◆ 文字通り真に受けてしまう人たち
◆ 超健康幻想
◆ 「理由と根拠を明確にしてください」
◆ ASDができて定型発達ができないことも、あるかもしれない
そこにいてもかまわなければ(あとがき)
たぶん2冊か3冊のシリーズになります。ブログを下敷きにしたところもありますけれど、ほとんどはあらためて書きました。興味のある方は、ぜひ読んでみてください。
悪意とかいじわるとかとASDについて。
ASDの人には、悪意とかいじわるとかの意図が持てない人がいる
と書いて、ものすごく怒られたことがあるんです。ツイッターをやめた理由のひとつはこれでした。なので少し怖いのですけれど、考えが進んだので書いてみます。
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相手がわるい目にあうことについて、喜びを感じるというのは、相手に対する興味関心があるということです。興味関心がなければ、どっちでもいい。どっちかというと、平和で幸せでいてほしい。自分のせいで困らせたりはしたくない。
誰かが困るというのは、周りの感情を完全に度外視すれば、わるい状況です。そしてその「周りとしての感情」を持つことが苦手な人からみても、たんにわるい状況です。そんなわるい状況、わざわざ作りたくはありません。
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悪意とかいじわるとかの意図を前提として怒ったり指導したりするのは、
悪意とかいじわるとかの意図がなければ、その行動は避けることができる
という前提があるのだろうと思います。正直言って、避けられれば苦労はしません、という場面はとても多いです。
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とくに「相手の感情を害することを避ける」件については、感情を害するポイントが異なる場合、非常に難しい。わたしもいまだに、しばしば失敗します。そして、自分とポイントが異なるため、考えてもわからない。相手が感情を害していると思い至るにも時間がかかる(最近は、反射的に謝るという技術を身につけました)。そもそも、悪意とかいじわるとかではないので、意図については誤解である(ので、何がどのようにわるいのか、どうすれば解決できるのか教えてほしい)旨伝えようとして、言い訳するなとよけい怒られる。
何をどうすれば解決できるのかわからず、誤解も解けず、どうしていいかわからなくなり、脳が「処理中」になってしまい固まってしまいさらに怒られる。
わりとよくあるケースです。
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「悪意がない」という前提であずさの行動を観察していたら、やっと意図がわかった
と言われたことがあります。「ASDなので、他人が困っているのを喜べるほどには他人に興味がない」と繰り返して伝えて、理解してもらいました。
そう考える人が増えるといいな、と思っています。
ASD的共感スタイルのこと。
共感にはいろいろあります。想像力とも、かぶるところがありますね。
ASDの人についても、「共感が苦手」とざっくりまとめられることがあります。しかし、ASDの人の中には、文学やアニメで想像力を鍛えた結果なのか、他人の抱える事情からその他人の感情を正しく推測できる人もときどきいます。毎回じゃなくても、です。
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苦手なのは「反射的」共感、相手の感情や表情を瞬時に共有して相応の対応をとること、なのではないでしょうか。少なくともわたしは苦手です。
そしてこれ、違和感をもたれやすいです。(目の前の相手が泣いているのに)「なんとも思っていない」などなど。表情が動かないのは自覚しています。反射的に動くのがポイントなので、表情を作っても間に合いません。
その一方で、(目の前の相手が泣いているのに)冷静に淡々とやるべきことをする、という点が評価されることもあります。泣くに至った事情は理解した、それはつらいと思う、できることはしてあげよう、そういう「共感」は働いているわけです。泣いてるか泣いていないかは、わたしの行動をあまり左右しなかったりします。泣いてなくても、つらいものはつらい。そのくらいは理解しているつもりです。
なんとも思っていない、とは違います。あくまで、「反射的に」感情や表情を共有できるかどうかの違いです。相手がつらいと判断すれば、相応の行動をとることはできます。
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ASDの人の共感については、「反射的に」感情を「共有する」ことができない、というのがメインのケースもあるんじゃないでしょうか。少なくともわたし自身については、そのように分析しています。
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共感についてはこちら↓
1 相手の状態を知る(嬉しいとか悲しいとか怒っているとか)
2 相手の表情に反応して自分の表情が動く
3 相手が感じているのと同じように自分も感じる
4 自分がその状況に置かれたらどう感じるだろう、と(知的に)想像する
5 相手はどう感じているのか推測する
6 自分が相手だったらどう感じるだろう、と(個人的に)推測する
7 つらそうな人がいると自分もつらい
8 つらそうな人になにかしてあげたいなと思う
The Social Neuroscience of Empathy (English Edition)
コミュニケーション能力とASD。
HGウェルズに「盲人国」という小説があります。その国の人は、全員目が見えません。そこに、目が見える人が迷い込みます。目が見える側が有利かというと、ぜんぜんそんなことはない。何をするにしても助けが必要です。
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ものすごく高性能でかっこいい義足が普及して、自分の足で歩いている人が「障害者」扱いになる未来とか、空想したりします。
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コミュニケーション能力が重視される世の中であるといいます。それで苦労しているASDの人も多いです。
しかしよく考えると、その「コミュニケーション能力」は、「定型発達の人の間のコミュニケーション能力」ではないでしょうか。もしも「人類全てに対するコミュニケーション能力」であれば、ASDの人が苦労するはずはありません。
ということは、この「コミュニケーション能力」は、絶対のものではない。人類普遍の価値は持たないわけです。
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もしもASDが多数派の社会であれば、ASD的コミュニケーション能力が評価されるでしょう。言葉の裏は読まないとか、空気はそもそも存在せず、空気を読めと強要するなんてことはありえないとか。
ASDが多数派の社会であっても「コミュニケーション能力」は評価されるかもしれません。しかしそれは、現在の日本でもてはやされているコミュニケーション能力とは、まったく異なるもののはずです。
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現実にはASDは少数派で、定型発達的コミュニケーション能力がもてはやされている。
そうなんですけどね。でもそれは、人類普遍の絶対的価値ではない。そう思っていたほうが、わたしは気が軽いですし、実際そう思って生活しています。