共感とは……いろいろあります。
共感について本を読み始めました。まず、共感とは何か。これが、8つもあるというんですね。混乱するのも無理はない。
1 相手の状態を知る(嬉しいとか悲しいとか怒っているとか)
2 相手の表情に反応して自分の表情が動く
3 相手が感じているのと同じように自分も感じる
4 自分がその状況に置かれたらどう感じるだろう、と(知的に)想像する
5 相手はどう感じているのか推測する
6 自分が相手だったらどう感じるだろう、と(個人的に)推測する
7 つらそうな人がいると自分もつらい
8 つらそうな人になにかしてあげたいなと思う
これらがすべて、Empathy(共感)というわけです。
さて、定型発達の人はこれらをすべて「正しく」行っているのかどうかというと、なんとなくそうでもないような気もします。とくに4と6では、「わたしが」どう感じているかを、定型発達の人はよく間違えます。少なくとも、人類一般について、相手が誰であっても、すべての意味で「共感」できるかというと、そうでもなさそうです。
これに対して、わたしでもできるのは、1と5と8ですね。これまでのいろいろを思い返すに、まあ、そこまで外れているわけでもなさそうです。4と6は、自分と相手が違いすぎると成立しません。「自分だったら」というのは、わたしがついやりがちで、そして間違った結論に至る、よくあるパターンの一つです。また、7については、わたしの場合はたいして働かず、このため泣き落としとか効かないわけです。
というわけで第一章でした。ちょっとずつ読んでいこうと思います。
わたしにとっての世界の見えかた、定型発達の人にとっての世界の見えかた
いま、「発達障害の精神病理3」という論文集を読んでいます。このなかに、ときどき、「わたしもそうです…… って、定型発達の人は違うんですか」ってことが出てきます。世界の見えかたについて、なんか腑に落ちたことがあったので、メモを兼ねて。仮説ですから、絶対正しいとかそういうものではないのですけれど、実感として。
さて、ASDの人、というかわたしにとっての世界の見えかたから先に扱います。こっちのことばかり論文には書いてあって、定型発達の人のことはあまり論文に書いてないものですから、最初は何を言っているのかよくわかりませんでした。って、定型発達の人が読者として想定されているはずですから、定型発達の人のことは自明として省略されているわけですね。難しい。
さて。わたし(ASD)にとっての世界の見えかたはこんな感じです。まいわーるど的な空間があって、その中に自分を含めた人間とか、ものとかがある。それを見ている自分というのはあんまり意識できてないです。ふつうに、脳の中に存在するって感じです。
自分と他人はまいわーるど内の登場人物としては平等? なので、ある意味公平な扱いとなります。たとえば、ものにぶつかって謝るとか。
平等なのはいいんですけど、これ、ゲーム画面みたいなものなので、どうも、それぞれの他人が「内面」とか「こころの中」だとかを持っている、というのが想像しづらい。いや、想像はできるんですけど、意識しないと難しい。また、単なる登場人物なので、「自分に対する」意図とか想いとかも、意識しないと認識できない。
ただし、行動の観察や分析はできます。そこからパターンを抽出することも可能です。
……と、この解説が続いていて、「……だから何」と思いながら読んでいました。
定型発達については解説がない。でも、この「まいわーるど」(とは論文には書いてないけど)についての解説が論文になっているということは、定型発達の人にはない特徴だということでしょう。
定型発達の人の世界のみえかたを、推測ですけど補ってみます。
どうも、あくまで自分が中心らしいんですよね。自分からみた他人とか、自分からみたものとか、そんな感じで世界が把握されている。これなら、自分と他人の距離感だとか、他人が自分をどう思っているかとか、きっとわかりやすいんだと思います。
感覚過敏/聴覚過敏のこと −ASDって治るんですか(6)
たとえば聴覚過敏。困っている人は多いです。まず、わがままだと思われる。わがままだと、本人が思っているケースも多いです。
わがままとの見分け方。
HPが減るかどうか、です。
聴覚過敏の問題ではなく単に不愉快、という場合は、HPは減りません。
聴覚過敏の問題のときには、HPが減ります。疲れます。ぐったりします。びくっとして、逃げねば、と、身体が反応します。
わたしは、小さい子どもの金切り声が苦手です。地下鉄で子どもが叫んでいたら、隣の隣の車両くらいまで逃げます。あれはしんどい。「もしもお母さんが気づいたとしたらショックを受けるのではないか」と思って逃げずにいた時期もあるのですけれど、あまりにつらくて場合によっては目的地で使い物にならなくなるので、最近は逃げることにしています。というか、子どもを見かけたら、万が一を考えて隣の車両に移ります。次の瞬間叫びだすかもしれない、というわけです。外食先など逃げられないときにはしんどいですね。なるべく早く帰るようにはするのですけれど。
子どものころは、母親が掃除機をかけ始めると逃げていました。家電量販店も、ずっといると疲れます。30分が限界かなあ。できれば10分以内で出たいところです。光もつらいけど、なによりうるさい。
そういうの、「みんながまんしているんだ、わたしは修行が足りない」と、ずっと思っていたんですよね。多くの人は、掃除機ではダメージを受けない。それに気づいたのは、大人になってからでした。
まず、他の人はともかく、自分はHPが減る、と認識するのは、大事なことのように思います。他の人も我慢しているのだから自分も我慢しなければ、というわけではありません。他の人はたぶん、我慢してない。我慢しているとしても、我慢のレベルがずっと低い。
たとえていえば、です。温泉で、ちょっと熱かったとして、皮膚がすりむけている人は入ると(少なくとも最初は)ものすごく痛いですよね。そんな感じ。
ただ、この聴覚過敏、ノイズキャンセリングヘッドホンなどである程度は予防できるとはいえ、ものによってはシャットアウトしづらいです。HPが減る状況を特定してそれらを避けることと、自分と周りがその件について理解することが、当面できることかなあ、とか。
ちなみに、うつ病などでエネルギーが減ると、聴覚過敏などはものすごく強くなるので、調子の悪い人はまず治療しましょう。これ大事。
知覚統合と問題解決能力 −知能検査について
WAIS-IIIに「知覚統合」ってありますよね。WAIS-IVでは「知覚推理」というようです。「知覚推理」のほうがわかりやすいような気もするのですけれど、ここでは、WAIS-IIIの用語を採用します。この「知覚統合」についてです。
何を知覚して何を統合するのか、って感じですよね。わたしはそう思いました。で、知覚統合の検査はパズルっぽいものが多いのですけれど、パズルができたら頭がいい? として、だからなんなんだと。実生活に役立つのかと。「みてわかる」能力ですと説明されることも多いのですけれど、それだってわかりづらい。
かんたんな例。パターン化して次を予測、みたいなことが、知覚統合には含まれます。丸が並んでいて、次を予測しましょう、という問題があったとしましょう。
たとえば、一番上の図のままで「次はなんでしょう」とか言われても困るけど、3つが実は組になってる可能性が高いとなると、この丸の列はかなりシンプルになって、次の予測もしやすくなるわけです。
これって、「考える」ということの、かなりシンプルな例ではあります。「また同じパターンで病気が悪くなってる気がする」として、何をどう改善するか、というケースは診察場面でよくあります。「同じパターン」を抽出しないと話は始まりません。「同じパターン」を抽出して、「それはさすがに避けようよね」という相談をすることで、ひょっとしたら病気の悪化は防げるかもしれないですよね。問題解決の一例です。
この例の「問題解決」「分析」には、「同じものをセットとして扱う」「並び方などの法則を見つける」というのが含まれています。「考える」に近い感じですよね。
とはいっても、この「知覚統合」だけでは、実生活の問題解決は難しい場合も多いです。たとえばこの「同じパターン」も、うまいこと言い換えないと、そもそも同じパターンであると気づけなかったりするわけです。それ以前に、患者さんの言ってることの意味がわからないとかだと、分析どころじゃないです。
さらに、じつをいうと、たとえば法則の分析を行うには、「法則があるはずだと信じて探す」必要があります。実生活では、「ここに法則がありますよ」なんていうアナウンスはありませんからね。ここで効いてくるのが、経験だったりするわけです。経験は、言語理解を用いてかんたんな文章にしておくと、整理しやすいです(図で整理できる人もいるにはいるけど、例外かなあ)。そして、経験の検索には、ワーキングメモリが関わっていたりします。とっさの判断もしばしば求められるし、時間がかかると疲れてやる気もなくなるし、というわけで、処理速度が速いとなにかと有利です。
というわけで、実生活の「問題解決能力」には、いろいろな能力が関わっています。しかし、「いろいろ」のままでは永遠に、何ができて何ができないのかわけがわからないし測れないので、この「いろいろ」を要素に分解して、テストできる程度に単純化したのが知能検査であるともいえます。最近、以前よりは知能検査の結果を「読める」ようになってきたので、治療においてはなにかと便利だなあ、と思うようになりました。
自分の中の他人の目について。
「離見の見」という言葉があります。演劇などで、観客の目で自分を見ましょう、という意味です。自分が観客であったら、いま舞台にいる自分はどう見えるか。それを意識しながら演じましょう、ということですね。
これね。定型の人であれば、普段からある程度はできていることだと思うのです。演技に集中すると忘れてしまうかもしれませんけれど、普段からやっていることではある。
それに対して、ASDのわたしの場合、よほど集中しないと頭から抜けます。というか、そんなこと、思いつきもしない。他人から見て自分はどう映るだろうか、と、言語的に問いを設定してはじめて、意識することができる。常時見ていることはできない。医師は患者さんから見られていますから、患者さんからどう見えているかを意識したほうがいいとは思うのですけれど、でも、それができない。いや、意識すればできるのですけれど、それでは仕事にならない。普段仕事に向けている注意・集中力を総動員しないと、他人の目から自分がどう映るか、想像することさえできないわけです。
…… わたしは昔から、身なりを整えることが極端に苦手です。小学校6年生のとき、カーディガンを裏返しに着ていて、たまたまうちに来ていた祖母を大いに嘆かせました。なぜ気づかないのか、って。どうしたら気づけるんだろう、と、不思議でしたけれど、よけい嘆かせそうなので、聞きませんでした。
これも、面倒くさがりだとか触覚過敏とかである程度は説明がつくとはいえ、他人からどう見えるか意識できないため、身なりの重要性が頭では理解できても実感として身についていない、というのが、ひとつの答えになりそうな気がしています。
自分と他人を比べることも、できていない気がします。比べようとすることはあるんです。自分と他人を比べないという、道徳的に? 正しい境地にたどり着いたという意味ではありません。比べようとはする。そして、どうにも不正確な結論にたどりつく。毎回間違うんならやめたらいいのに、と、しみじみ思います。最近、あんまり比べなくなりました。だって、比べるのが絶望的に下手なんですもの。
これもね、自分を見ている他人の目があれば、他人と他人を比べるのと同様に、自分と他人を比べることはできるはず、ということなのかなと。自分を見ている他人の目がないと、自分から見た自分と自分から見た他人という、そもそも基準点が違う比較となってしまうので、上手に比べられないのは当然なのかもしれません。
障害福祉サービスのこと。
グループホームに住みましょう、とか、作業所に行きましょう、とか、ヘルパーさんに来てもらいましょう、とか、精神科ではよくある光景です。そして、「手続きの意味がわからない」と、混乱する人が多いです。
これらは、障害福祉サービスと呼ばれます。札幌市(地方自治体)の事業です。相談支援事業所というところが、申請などを手伝ってくれます。入院中であれば、病院のソーシャルワーカーがとりあえず手伝う場合もあります。
で、手続きと関係者が多くて混乱するんですよね。わたしも、理解するまでにしばらくかかりました。書類ばかり多いような気がするわけです。実際書類は多いんです。
じつをいうと、介護保険と要領は同じです。介護保険では、ケアマネと呼ばれる人たちが関わってますね。
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お金の流れを考えてみるとわかりやすいです。
札幌市としては、「病気や障害のある人を支援しよう」と考えています。病気や障害のある人なら、グループホームなどのお金を一部払ってやってもいい、というわけです。
ということわけで、「病気/障害がある」という証明が要ります。病気である、というだけでなく、グループホームとかが必要です、という医師の保証がいるわけです。そうでないと、お金なんか出せない。そりゃそうですよね。
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病気であって、福祉が必要であることはわかりました、支援しましょう、ということになったとします。次は、どのくらい支援するのか=その人についてお金はどのくらい割りふるのか、という問題があります。重症な人には多くの支援が要りますし、軽症な人にはそこまで多くの支援が要らないと考えるのが普通です。ここで、意見書が登場します。重症度の判断ですね。これも、障害福祉サービスを利用する、と決定した時点で、主治医が書きます。
じつをいうと、単純に重症かどうかというより、生活にどのくらい支障があるか、がポイントです。生活に支障がある人の生活をしやすくするのが福祉だからです。なので、表には病気そのものについて、裏には生活の状況について、を、それぞれ書くことになっています。
ここまでが、医師(医療)の仕事になります。
◆
ここからは、福祉の仕事です。
この人についての予算はいくらです、が、決まったとします。この予算、どこにどう使うのかが問題です。予算を作っただけでは支援になりません。
ここで、相談支援事業所の出番です。本人と面談して、たとえばグループホームに住んで作業所に通うのがよいと思います、そうすれば、こんなに生活が改善します、という計画を立てます。
この計画を立てるにあたっては、専門知識が要ります。たとえばグループホームはどういう支援をするところなのか、どういう人におすすめなのか、何をどのように改善する可能性が高いのか、札幌市が出してくれるお金はいくらなのか。グループホームに住み作業所に行きたいとして、その人の予算内で足りるのか。というわけで、相談支援事業所の中でも、「計画相談」をしてくれるところ、ということになります。
たとえばグループホームの役割とか、札幌市はグループホームにいくら払ってくれるのかとかは、どのグループホームでも同じです。なので、まずは、「グループホームについてお金を払ってください」と申請することになります。サービス等利用計画、ですね。
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グループホームに住む、といっても、具体的にどのグループホームに住むか決まらなければ、札幌市はお金の払いようがありません。というわけで、グループホームや作業所に見学に行くなどして、具体的な場所を決めます。
これについては、ここのグループホームはこんな人におすすめ、という件についての知識が必要です。また、それぞれの利用者について、細かい事情まで知る必要があります。相談支援事業所の中で、計画相談をしてくれるところがそっちの役割もしてくれることもありますし、そこまで手が回らないし支援者は多いほうがいいし、というわけで、別の相談支援事業所が、具体的な相談に乗ってくれる場合も多いです。
これで、いろいろ利用開始、ということになります。お金を払ってもらうための手続きなので、いろいろ証明したり計画を立てたり、たいへんです。
とはいっても、この手続きをへることで、相談支援事業所という心強い相談先ができるのは、とてもよいことだと思っています。相談支援事業所にまず行ってから、病院を受診する人もいます。たいていは熱心で親切な人たちですし、治療の質が向上することも多いです。
病院を受診する前に、まずは相談支援事業所に相談する、というのも、病気や障害で生活に支障があるなら、よい考えだったりもします。
ASDって治るんですか(5)「仕事ならできる」はなぜなのか
ASDの人の中には、人相手の仕事(例:精神科医)であれば、仕事において、プライベートよりずっとうまくやれる、という人達がいるように思います。わたしとか。そして、「人間関係は苦手と言いながら、人相手の仕事はなんとかやれている、ということは本当はもっとうまくやれるはずなのに、仕事にだけ努力してそれ以外を軽視しているからこんなことになるんだ」とか怒られたりするわけです。
わたしだけかもしれませんけれど、「仕事以外で、仕事と同じくらいのレベルの結果を出す」のは困難です。無理です。
やる気スイッチの問題もたしかにありますけれど、それだけじゃありません。
◆
仕事ってね、プライベートに比べてずっと、単純なんです。
たとえば、診察室。患者さんの入ってくるドアは決まっています。ということは、患者さんを呼んだら、ドアのところに注目していればいい。もっというと、わたしが呼ぶまで、患者さんは入ってきません。いきなり声をかけられる可能性は非常に低いです。
これだけでも、ずっと楽になったりするんですよね。
プライベートでは、どの方向から、いつ、声をかけられるかわからないでしょう? 意外性が多いと、どうしていいかわからなくなる可能性が高いのです。
じつは、わたしは、緊急事態には役に立ちません。
◆
病院だから緊急事態はあるだろう、急病とか、転倒とか。
−− もちろんあります。きちんと対処はしています。
病院での緊急事態って、実は、種類が少ないんですよね。そして、急病とか転倒とか急患とか、種類が決まっていますから、この仕事についたときからいろいろ習ってもいますし、経験も積んでいます。それなら対処できます。
保険として、未経験の事態で自分がパニックになってどうしていいかわからなくなったとしたら次はどうするか、も、考えてあります。要は早めに助けを呼ぶ。誰に助けを求めるかの順番は決めてあります。
準備は大事です。どうしていいかわからなくなったらどうするかが決まっているとなおよいです。そして、仕事では準備がしやすいのです。
もちろんわたしは、救急科で働くことは無理です。
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専門職が勧められるのはこのへんの事情もからんでいそうな気がします。専門職であれば、専門の仕事をして、専門の仕事の範囲内のトラブルだけに対処すればいいですものね。
専門職! として就職するのではなくとも、何か、才能が示せれば「そっち専従」としてもらえることもあるので、得意なことを活かせるところで働けるといいんだけどな、と、いつも思っています。