認知行動療法とはなにか

認知行動療法について質問されることがときどきあります。治療がいきづまったり、いきづまらないまでも調子が悪いときに出てくることが多いです。

認知行動療法は、ほんらいは専門施設でのトレーニングを経てやるべきものではあるのですけれど、そうはいっても、厚生労働省からもマニュアルが出ています。つまり、ふつうの精神科医や心理士であっても、実行は可能です。

 

 

流れをかんたんに。(かんたんすぎて専門家には怒られる気もします)

まず、これまでの人生ならびに病気にかかってからのいろいろをたずねて、思考のパターンを分析します。

たいてい「これこれこういうわけで深刻に落ち込んだ」というパターン(否定的自動思考)が見つかるので、これについて、「それってほんとに100%わるい状況って言い切れるのか、ほかにとらえ方はないのか」「その考えって極端じゃないのか」と考え直し、明るくなれば「じゃあその新しい思考パターンを採用しようよ」という流れに持っていきます。

でも無理、となっている場合には、問題となっている状況を分析して、具体的に取り組める部分をピックアップして、やってみて、自信をつけてもらいます。

で、もう一回分析して、そもそもそういうパターンを採用した背景に、人生やよのなかについての「こんな(わるい)ものに違いない」という信念(スキーマ)があるんじゃないかな、それってほんとに絶対正しい? と、考え直してもらえいます。たいていは、そのスキーマが明らかになった時点で、「それはさすがにありえない」ということが判明します。

で、「よくがんばったよね」「今後もこれ、使おうよね」というわけで終了。

 

 

たとえば、

「あいさつしたけど返ってこなかった」→「わたしは嫌われている」

とします。でも、その人が単に朝から機嫌が悪かったのかもしれませんし、集中しすぎて聞こえていなかったのかもしれませんし、そもそも、上司にしかあいさつしないという主義の人かもしれません。ともだちが同じことを言っていたらどう思う? とか、よくある「考え直そう」メッセージです。

で、「嫌われているので話しかけるのはやめよう」というのは、そもそも嫌われていない可能性もけっこうあるので、たとえば、昼休みに、よのなかの共通の話題(いまだったらコロナですかね)について声をかけてみましょう、ってわけで実際にやってみる。

だいたい毎回そのパターンで落ち込んでいることが納得できたら、「またそのパターンだ」「でもこういう考え方もできるかもしれない」「ちょっと明るくなった気がする」という日記をつけて、自分で納得する。

だいたいそもそも、「わたしは嫌われている」と信じているからそういうパターンになってるよね、というところまで分析できれば、そのパターンが非合理的だとしみじみわかるし、問題のパターンを繰り返したときに、「それはないよね」と自分で気づける可能性も上がりますよね。

で、ここまで自分で考えてもらって、今後も同じパターンで落ち込みそうになったら思い出してもらう、というのがゴールです。

 

 

じつをいうと、わたし自身はこれ、けっこう苦手でして。

「あいさつしたけど返ってこなかった」→「わたしは嫌われている」というパターンの患者さんがいたとして、

「ともだちがそうやって悩んでいたら、そうだね嫌われているよね、って、本気にするかしらね」とはたしかに言います。診察のたびに繰り返していると、患者さんも慣れてきて、「って、ともだちが悩んでいたら、それは考えすぎだってアドバイスします」と自分で言うようになったりします。

わたしがパターン化してもらうのはそっちかな、とか。「それ、ほんとに?」のあたり。友人だったら? 万古不易の真理であると言い切れる? 相手に失礼な可能性は? 違ったらどうする? 前回もそれ言ってたけど? 決めつけとか言われて反論できる? 「考え直せ」の言い回しはいろいろあります。

あと、日記をつけろとか言いづらい。わたしが正式なトレーニングを受けたら気軽に提案するのかもしれません。

ワーキングメモリのはたらき(3)情報をまとめる

ワーキングメモリとはいっぺんに考えられる範囲である、みたいなことを書きました。なので、ワーキングメモリが高い(広い? 大きい?)と、脳の中の検索範囲が広いので、思いつく範囲も大きくなるように思います。

便利そうですよね。

で、このワーキングメモリ、「もっとほしい!」となったときに、どうすればいいのかなと考えていました。脳トレもいいかもしれないですね。それはさておき。

 

 

情報をまとめる、というのはどうでしょうか。たとえば、日本の歴史であっても、江戸幕府の成立に関わるいろいろがきちんとまとまっていれば、「江戸幕府」の一言でまとめることができます。

高校生の頃、勉強法として習ったのは以下のことです。

まず、単元をまとめなさい。A4用紙1枚くらいがよいです。(それならやってる)

で、そのまとめを作りなさい。3行から5行くらいに。(まあ、できる気もする)

さらに、それをまとめて、1文にして覚えなさい。(なんですって)

 

で、これ、ワーキングメモリに占める体積(?)って、減りますよね。教科書の数ページをまるまる頭に入れておくことができたとしても、それを直接ワーキングメモリに含めることができるかどうかは不明です。でも、一文であれば、ワーキングメモリに含めることはわりとかんたんです。

まあ、いってみれば、「大きいものは一つでもテーブルを占拠する。そのいっぽうで、小さいものならテーブルに複数乗せることができる」って感じです。

 

 

というわけで近々試験がありますので、そんな感じで勉強してます。

興味関心のある分野はもともと知っていることも多いし、そんななか知らないことが出てくると面白くてすぐに頭に入るのですけれど、興味関心のない分野については、そもそも基礎ができてないし新しいことだらけではあるのだけれど面白くないしで、いつまでたっても進みません。でも、そういう、興味関心のない分野を強制的に勉強するという意味では、試験も大事だなあ、と痛感しております。

ワーキングメモリのはたらき(2)

以前、ワーキングメモリについて書きました。その後、主に診療において、いろいろ考えることがありました。

作動「記憶」とかいうんですけどね。「記憶」というイメージとは、少しずれるように思うんです。

 

ワーキングメモリがすごく低い人の場合。たとえば病院で、「この規則は困ります」と申し出たとしましょう。

患者さん「この規則は困ります」

医師 「しかしこのような事情があって、必要な規則なんですよ」

患者さん「なるほど」

医師 (わかってくれた、よかったよかった)

患者さん「この規則は困ります」

医師 「こういう事情であると説明しましたよね?」

患者さん「はい、覚えています。理解しました」

医師 「そういうわけで、必要な規則です」

患者さん「この規則は困ります」

医師 (記憶はしているようだ、しかし、わかってくれない……)

極端な例ですよ、もちろん。

 

これね、「一回に一つの話題」しか、頭に入らなくて、だから起きているようなのです。

「この規則は困ります」だけ頭にある

 → 「こういう事情です」だけ頭にあり、「この規則は困ります」は頭から一時退場

 → 「この規則は困ります」だけ頭にあり、「こういう事情です」は頭から一時退場

というわけです。

記憶の問題ではないんです。記憶はしている。しかし、「こういう事情の規則なんです」と「この規則は困る」が、同時には頭の中に入れておけない。

 

一つの話題を終わらせてから次に行く、を徹底すると、わかってもらいやすいようです。

 

 

ワーキングメモリが非常に低いと、たとえば、「比較」において問題が発生します。

Aがいいかな、Bがいいかな?

って、AとBの両方を考える必要がありますよね。

Aを取るべきだろうか? であれば、考えることができる。しかし、AとBを同時に考えることが難しいため、両方を頭の中だけで考えるのは困難です。

 

紙に書くと事態はかなり改善します。

しかし、文章だと、Aについて読んでいるときにはBが頭から一時退場、Bを読んでいるときにはAが頭から一時退場、となりやすいので、どうも、図のほうがよいようです。とはいっても図を描くのはなかなか難しいことが多く、毎回悩みます。

 

 

いわゆる「あたまがいい」人って、ワーキングメモリが高いんですよね。

 

とはいっても、そんな長い演説を聴く機会もないし、10個や20個をいっぺんに比較するという事態は、日常生活では発生しづらい。じゃあ、何に役立っているのか。

 

どうも、「アイディアを出す」ところにかかわっているようなのです。

 

たとえば、数学の図形問題で、補助線を引く場合。

過去に解いた問題を参考に、補助線を引いたりしますよね。「そこに補助線を引くと思いつくことができれば解けるのはわかるけど、そんなの思いつきません」と思った経験は、多くの人にあると思います。わたしだけじゃないはず。

で、この補助線、「あたまがいい」人は、あっさり引ける。

補助線というのはいろいろなパターンがあるので、頭の中を検索したり、検索して出てきたものを試してみたり、という試行錯誤が必要になります。ワーキングメモリが高い人は、この「検索」範囲が広いようなのです。「なぜそんなこと思いつくの? って、たしかにそこに線を引くのがベストよね」ってことが起きる。言われてみれば、わかる。

 

ワーキングメモリは、「頭の中のテーブル」に例えられることが多くて、「低い場合にどう困るかはわからなくもないけど、高い場合って?」と、疑問でした。

テーブルがすごく広ければ、載っているものの種類は増えます。いいかえると、テーブルが広ければ、現在の問題と関連性の低い話題もテーブルに乗っている可能性が高く、試行錯誤に含めることができる話題の範囲が広い。「正しい」というか、「なるほど、そうきたか!」という解決にたどり着く可能性、高そうですよね。

で、解決を教えられれば、頭の中に入ってはいる、つまり記憶している範囲の中から、その解決法に注目するので、自分の(狭い)テーブルでも、その解決法を乗せることくらいはできる、ってわけです。

 

 

「あたまのいいひとって、ワーキングメモリが高い気がする」とずっと思っていて、「でも、ワーキングメモリが高いってどういうこと?」と実はずっと疑問でした。わたしが不勉強なだけだとは思うんですけど、どうもうまい説明が思いつかなくて。

 

やっと、イメージできたように思います。

 

 

問題を分解してフローチャート化する ーASDって治るんですか(4)

A「自分は有名になる、有名になってこそ名が残り人生に意味がある」

B(反対の意を遠回しに伝えるも伝わらず)

A「自分の父親は凡人で、有名にもならず名も残していない。彼の人生には意味がない」

B「有名にならない人にも有意義な人生を送った人はいるんじゃないの?」

A「凡人も、木を植えれば木は後世に残るし、意味のある人生だったと言えると思う」

 このやりとりで、A(ASDの人)の発言にB(医者)が違和感を持っている話の続きです。

わたしはAみたいな発言で周りに「話を逸らすな」と怒られることが多いです。怒られるのはまあいいとして、周りを不愉快にさせるのは避けたいわけです。

 

 

ここで話をややこしくしているのが、

「自分がBの立場だったらどう思うか」

です。

もちろん、まったく気になりません。

…… ふつうは、「自分が相手の立場であれば困るだろう」と思うから自発的に改善に取り組むのだと思うのです。わたしは一歩目でつまづいています。

わたしがBであれば、もしも話を戻したければ、「なるほどね、いいこと言う。ところで、何も残さなくても人生に意味があるとわたしは考えるんだけど、その件どう思う?」と、あらためてたずねると思います。必要なだけ繰り返します。不愉快にはなりません。

つまり、わたしがBの立場に立ってはいけないわけです。Bの立場に立っていたら、「でもわたしであればそうは思わない」というわけで行動は変えられません。

 

 

というわけで、「わたしだったら違和感を感じないし不愉快にもならないけど、多くの人は違和感を感じて不愉快になる」らしい、というところまで進みました。

しかし。

定型の人と同じようにはいかない。なんとなく全体の文脈を意識することはできないわけです。いや、全体の文脈だけに注目することはできるんです。でも、直前の文章に集中するとそれしか見えない。

わたしの場合、これが治る見込みはありません。仮に治るとしても、他のやるべきことならびに残りの人生を考えると間に合いません。100歳になるころにはできるかもしれないけれど、それでは困るわけです。やることは他にもありますし。

 

 

ここからは推論です。

「2段階の逸脱は許されない」

というルールを設定すれば、なんとか話はできそうな気がします。

 

この例文では、もともとA自身のことについて話していて、話がAの父親についてに変わっています。ここで一回、話が変わっているわけです。

一回すでに話が変わったので、その話(父親の話)にとどまるか、もとの話(自分の話)に戻らなければならない。凡人一般の話に進むと、二回話が変わったことになるので、これはルール違反である。また、直前の話(父親の話)に戻らず相手の質問などに直接答えなくても、もとの話(自分の話)に戻ることは許される。

 

本にはそうは書いてなかったんですけど、それが定型的ルールであると考えれば、そのルールに従うことそのものは、わたしの場合は可能かもしれません。

 

直前の発言が、もともとの話題から逸脱しているか否か

逸脱していない→ 直前の発言=もともとの話題に関係していることであれば自由に話してOK

逸脱している→ もともとの話題に戻るあるいは話を広げないように注意しながらその話を続ける (間違って話を広げることのリスクを考えると、もともとの話題に戻るほうが簡単そうではあります)

 

簡略化すると

相手の直前の発言が、もともとの話題から逸脱しているか否か

逸脱していない→ 相手の発言に応じた話ならOK

逸脱している→ もともとの話題に戻る(相手の発言に直接答えることは不要)

でしょうか。

 

このフローチャートでは、

1) もともとの話題は何だったのか

2) 相手の直前の発言はもともとから逸脱しているか

という順序で考えればいいだけです。

(1)ではもともとの話題、(2)では直前の相手の発言。一つずつ視野に入れれば足ります。

 

 

相手の発言ともともとの話題を同時に認識して自分の発言が適しているかどうかを判断するというのが、多くの人には意識せずに可能なようですけれど、わたしには無理です。多数派の人はいろいろ同時に目に入れることができる一方で、わたしにはそれが不可能だからです。

そうであれば、一回に認識するのを一つにして、ステップを分けるしかない。

 

どうでしょうね。

 

 

 

 

できないものはできないとあきらめる ーASDって治るんですか(3)

サリーアンの課題というテスト? があります。人の気持ちがわかるかどうか、相手の視点に立てるかどうか、のテストとされています。

① サリーとアンの二人が部屋の中で遊んでいます。
② サリーは自分の人形をカゴの中に入れて部屋を出ます。
③ サリーが出ていった後に、アンはカゴの中の人形を自分の箱の中に隠しま す。
④ 部屋に戻ってきたサリーは、もう一度人形で遊ぶためにどこを探すでしょう?

これ、発達障害について学び始めたときにみごとに間違えて、ショックを受けたのを今でも覚えています。「知能が正常でもこの簡単な問題に誤答する人がいるって書いてある。不思議な障害もあるものだ」「えっ、わたしのこと?」

 

 

ASDの人が全員、こういう課題に誤答するわけではありません。わたしはおそらく極端なケースだと思います。

このサリーアンの課題は、いろいろな要素を含んでいます。わたしの場合は、3の文章(人形は箱の中に入っている)に反応してしているから、意味がわからなくなるようです。記憶には問題はないはずなんですけどね。

 

 

最近読んだ本にこんな例がありました。

A「自分は有名になる、有名になってこそ名が残り人生に意味がある」

B(反対の意を遠回しに伝えるも伝わらず)

A「自分の父親は凡人で、有名にもならず名も残していない。彼の人生には意味がない」

B「有名にならない人にも有意義な人生を送った人はいるんじゃないの?」

A「凡人も、木を植えれば木は後世に残るし、意味のある人生だったと言えると思う」

 AがASDの人で、Bが医者でした。B(医者)が何に疑問を抱いているのか、わたしはぜんぜん理解できないわけです。A、いいこと言うじゃん。

本を読み進めると、B(医者)はこの発言に違和感を持ったようです。論理的には合っている、しかし、会話の文脈には合っていないのだそうです。

模範解答? A「きれいごとを言っていても、名を残さなければ後世からみれば消えてて認識できないわけだからやっぱり意味ないですよね」 わたしは混乱しました。話の筋が見えない。模範解答、質問に答えてないじゃん。

20回くらい読んでやっと意味がわかりました。模範解答は、最初の文章(有名になってこそ名が残り人生に意味がある)に対する反論への返事だったのですね。

 

国語は得意だったんですよ。読書量も多いんですよ。でもこのありさまです。

 

 

いい悪いはともかく、無理なんだと思います。修行では解決しない。あきらめました。わからないものはわからない。これをわかるように努力する暇があったら、得意分野についてあるいは精神医学について、学んだほうがよほどいい。

 

「知的障害の人から、話がわかりやすいと評価されるのは、前の前の文章を参照するみたいな複雑な話をしないからかもしれないね」

…… そうかもしれません。それでいいということにしよう、というか、それしかないな、と思う今日このごろです。

 

 

よのなかのなりたち ーASDって治るんですか(2)

 ASDを根本的に治す(消す)ことは、いまのわたしには不可能です。とはいえ、今後可能になるかもしれませんし、わたし以外の人がやっていることかもしれません。そうはいっても、いまの時点でできることもあるわけです。

 

 

世の中に起きている(ASDの人にとっては)謎の現象を言語化する、ということは、有効であるように思います。ASDの人の思考回路を説明するのではなく、多数派の人の思考回路や世の中の成り立ちを説明する。絶対正しいという保証はなくても、です。

 

 

一つ例を挙げます。

「なぜそうなるのかたずねたら怒られた」というエピソードはよく聞きます。いちばんよくあるのが、「なぜ怒っているのかたずねたらよけいに怒られた」です。納得がいかない。わたし自身にも覚えはあります。

 

「自分が、なぜ怒っているのかたずねられたらどう思う?」

「相手がわからないならわかるまで説明します。わからないなら聞いてくれたほうがありがたいです。いくら説明してもわからない場合はイライラするかもしれないけど、少なくとも説明は試みますし、相手がわからないのは自分の説明が悪いからかもしれないと思うのでそのイライラも自分の問題かなと思います。」

…… 「自分だったら」と自分に置き換えて考えても、たぶん、答えにはたどり着かないわけです。

 

わたしもすべて言語化できているわけではないのですけれども、説明をこころみます。

「自分がわかっていることは相手もわかっているはずだと思いこんでいる人が多い」

「自分の怒っている理由について、言語化できない可能性がある」

言語化できない場合、自分の言語能力のせいであるという反省を省略していらだち、そのいらだちを相手にぶつける人もいる」

…… あたりでしょうか。

 

「そんなわけはない、自分と他人は違う人だから自分がわかっていることがわからない人もいると思うし、なぜ怒っているのかは基本的には言語化できるしかりにできないとすると言語化できないと表明するし、言語化できないのは自分の問題であると認識している」

…… わたしもそう思ってたんですけどね。どうもそれは、少数派のようです。多数派が正しいとは限らない。少数派が劣っているとは限らない。ここポイント。

 

 

ASDの人でいちばんひっかかるのが、多数派の人が「自分の怒っている理由を言語化できない可能性があり、また、言語化できないという事実を認識できていない可能性も高い」というところのように思います。理不尽ですけどね。わたしもそう思います。しかしながら、そういう人が多数派であれば、それは許されてしまうわけです。

 

 

言語化できるのとできないのとどちらがいいかというと、言語化できるほうがいいと思います。言語化できないときに言語化できないと表明するのと逆ギレするのでは、言語化できないと認めるほうがいいと思います。たぶんね。つまり、ASDが絶対的に劣っているとはいいがたい。

そこまで考えたうえで、「そういうもの」と知っておくだけで、自分を責めなくて済むぶんずいぶん楽になるように思うのです。わけがわからないという恐怖からも自由になれますし、ね。

ASDを治したいんですけど、というリクエスト ーASDって治るんですか(1)

わたしの勤める病院も、最近は、初めて受診する人には予約が必要になりました。たいていは看護師かソーシャルワーカーが電話を取ります。だいたいの受診理由をたずねてから、受診の日時と(必要な場合は)担当医師を決めます。

先日、外来の看護師さんがつぶやいていました。「ASDを治したいって電話がけっこうあるんですけど、どうしたらいいんですかね……」

 

あずさが診るかどうかはさておき、そもそも治るんだろうか、というわけです。いい質問です。

 

 

トラブルが減る、という意味では、治る、は可能だと思います。

たとえば自分のパターンと能力を分析して、フローチャートで乗り切るとか、テンプレを研究するとか。病院じゃなくて自助グループでもいいかもしれませんよね。本を読むのももちろんおすすめです。

家事などで困っている場合は、生活について助けを得るのも一案です。代表はヘルパーですね。障害福祉サービスの範疇です。医師の診断書を持って、相談支援事業所というケアマネの若者版で相談するのが基本です。

そもそもトラブルの少ないところにいればいい、という考えかたもあります。適職を探す、というわけですね。これも、自分の能力/得意不得意を分析した上で、職種などの条件をはっきりさせた上でハローワークなどで相談するとか、すでに就職していれば、部署や担当する仕事の種類について再検討するとかの余地もあるかもしれません。

 

 

うつ病は治る病気です。うつ病ではない状態になります。

統合失調症躁うつ病は、完治は難しい病気だとはいっても、症状を軽くすることは可能です。うまくいけば、症状はなくて再発/再燃の予防をするだけ、という状態になるかもしれません。

 

ASDについては、そういう「病気」とはちょっと違う気がする、というのが正直なところです。わたしだけかしら。

 

ASDを治したいんです」という電話が来た、という報告を受けるたびに、ASDを消す、という意味であればそのリクエストは受けられないけど、ASDにまつわるトラブルを解決する、という意味であれば相談には乗れる、と返事をしています。でもそもそも、その説明をするために受診してもらわねばならないのが、難しいところです。