ASD的誠実さ、みたいなものについて。

わたしが「ASD的誠実さ」って呼んでる何か、について。この言い方、英語っぽいですね。

 

 

必ずしも、「嘘をつかない」「ごまかさない」ってわけでもないような気がするんです。さすがに言わないほうがいいことというのもありますし、言えないこともある。理解してもらえないことが明らかなケースもあります。

ただ、割合は少ないかもしれません。

 

とはいえ、嘘やごまかしの成分が少ない、というだけではないように思います。

 

 

「考えて」話しているということかもしれません。毎回かならず考えているのかと詰め寄られると自信がないし、考えても外すときが多いだろうと言われるとそのとおりです。そうはいっても、論理的整合性がとれるまで考えるし、嘘とかごまかしが入ったとしても、どこが嘘で何がごまかしか自分でよくわかっている。

 

患者さんがときどき、(わたし以外の職員に)わかりやすくごまかされた、と怒っているのを聞きます。どうせ本当のことは教えててくれないから言わない、とも。わたしも職員ですけど、なぜかわたしに言う。

「でもわたしも絶対すべて本当のことを言ってるかどうかは保証できないですよ」

「そうはいっても先生正直だよね」

 

自分が何をごまかしているか自覚した上で話すというのは、正直であることに近いのかもしれません。そこまで考えて話すということも。

 

 

つらさを紛らわす系の薬の一部は、「のんでいる間は思考力が下がるように見える」「やめると鋭い意見が言えるようになる」という印象があります。やめると思考力が速やかに戻るということは、思考する能力自体が下がったというわけではなくて、薬をのんでいる間は考える必要がなくなる、ということかもしれません。

それはつまり、考えるというのは、すごくエネルギーをつかう作業だということ。考えなくていいときには、自動的に考えなくなるのだということ。

 

 

いろいろな事情で、医者としてのテンプレみたいなものに則って話す、と決めることがあります。トラブルは避けられますし(お互い気を遣いあってるような気もします、患者さんが気を遣い、空気を読んでいるともいいます)、消費するエネルギーは少ないかもしれません。そのほうが治療効果が上がることもあるのかな、あまり自信はないですけれど、そっちを望む患者さんもいます。

 

そういえば、患者さんにも空気を読んでもらわねばならない、と主張する医者もいます。わたし自身空気を読めない自信があるので、聞こえるたびにぎくっとします。

 

 

その場の正解、というテンプレを持たないASDのわたしが、毎回オーダーメイドでセリフを組み立てている(そしてときどき間違う)ということかもしれませんね。そして、医者としてのセリフにおいては、許される幅が狭いため、日常会話よりはずっと、大きく外すリスクが低いです。

……日常会話のリスクはぜんぜん減りません。テンプレの威力は場面ごとに異なるということかもしれません。

それならあなたが授業しなさい!

たまには昔のASDエピソードを。小学生の頃の話です。

 

歴史、好きだったんですよね。マンガ日本の歴史という、20冊くらいのシリーズものがうちにありました。親に頼んで買ってもらったのか、頼まないけど教育目的に買ってこられたのかはおぼえていません。何度も読み返していました。で、小学校の図書室にある歴史本も片端から読んでいました。読み物になっているのは戦国自体の武将についてのものが多く、織田信長が大好きでした。(いまでも好きです)

歴史の授業で戦国時代を扱っていたときでした。授業を真面目に聞こうという気持ちはあったものの、知っていることばかりでしかもスピードが遅く退屈でした。そこで、社会の教科書を最初から読み返すことにしました。社会の勉強をしているんだから構わないだろう、というわけです。社会の時間ですから。

先生に怒られました。「真面目にやりなさい!」「真面目に勉強してます。教科書を読んでます」なぜ怒られているかわかりませんでした。「それならあなたが授業しなさい!」なぜそうなるのかさっぱりわかりませんでした。ただ、授業をしなさいと命じられていることだけはわかりました。「わかりました、いつですか」次の日の歴史の授業、ということになりました。ちょうど、織田信長の天下統一のあたりでした。「それなら任せてください」語りたいことはたくさんありましたので、ラッキー、と喜びました。聞いてるだけより絶対楽しいはずですし、わたしだったらもうちょっと楽しい授業ができるはずだという自負もあったので、クラスメイトを楽しませるよい機会だ、というわけで張り切りました。

家に帰って、明日歴史の授業をすることになった件を父親に報告しました。織田信長は父親も好きでしたので、父娘で喜びました。「授業するならクラスメイトを楽しませるだけでなくきちんと理解できるように、きちんと準備してから臨むように」

日頃から、「理解したということは他人に説明できることと同義である」と教えられていました。戦国時代について自分が理解できているという自信も、説明できる自信もありました。あとは、楽しめるエピソードや、教科書には書かれていないけれど理解を深めるのに役立ちそうな解説を盛り込み、時間通りに終わらせるべく組み立てるだけです。ふだんから、とくに織田信長については詳しかったので、皆にぜひとも知ってほしい織田信長のすばらしさについて語る絶好の機会であると、張り切りました。

次の日。授業は大成功でした。普段話さないクラスメイトからも「面白かった」「わかりやすかった」とほめてもらったので、目的は達成できたのだと思います。先生の機嫌は悪かったような気がします。授業をしろと言われたから授業をした、しかも面白くわかりやすい授業だったとよい評判を得た、で、百点満点のはずだ、というわけで、先生は今日何らかの(わたしとは関係ない)理由で機嫌が悪いのだろうという結論に至りました。

帰宅後、「面白かった、わかりやすかったと、クラスの皆からほめてもらった」と父親に報告しました。「範囲はカバーできたか、時間通りに終わったのか」という確認に「もちろん」と答え、父親にもほめてもらいました。「よくやった」先生の機嫌が悪かった件については、わたしの授業と関係ないと思っていたので、とくに報告しませんでした。

この授業は楽しかったので、のちのちまで「小学校時代のよい思い出」として記憶に残りました。

 

 

先生が期待していた行動は何だったのでしょう。どうも、謝罪が正解だったようですね。

 

「授業をしろと言われたわけだし、わたしも授業とかやってみたかったわけだし」「別にマンガとか読んでたわけじゃなくて、読んでたのは社会の教科書だし、授業の範囲についてテストされたら全問正解する自信はあったわけだし、全部知ってるならあらためて授業を聞かなくても、授業の目的はあらかじめ達成されているわけだし」

 

いまなら「正しい」というか、期待された行動が取れるかしら。あまり自信がありません。

 

レビューと考察と個人的感想:「発達障害考察本」

 

 第2章についてがいちばん書きやすいので第2章について書きます。

第2章は、「コミュ障」の解決法で、説明が上手になる方法です。実際、練習するかいのある方法が書かれているので、ほんとおすすめです。気になる方は本を読んでみてください。

 

 

これ、わたしも、原理的には同じ方法でクリアしているんです。現在、空気は読めないものの「説明が上手な医者」「彼女に教わればわかるようになる」という評判(すべてがお世辞ではないと思います)なのは、幼少時からの訓練のたまものです。

 

関連エピソードなので自分のことを書きますね。

 

 

わたしが小学生の頃から、父親に繰り返し言われていたことがあります。

「他人に説明できてはじめて、理解できたといえる」

「他人に教えることは理解を深めるから、教えてほしいと言われたら彼彼女がわかるまできちんと教えなさい」

でした。

大人になって、理解はしているけれども説明はできないという人が存在していることにやっと気づき、驚いた記憶があります。とはいっても、いまでも、説明できてはじめて理解できたというのではないかとかすかに疑ってはいます。

 

 

で、他人に説明というのを、毎日トレーニングしていたわけです。たぶん、父親には「教育」という意図はなかったと思います。少なくとも、受験などの「結果」を意識してのことではなかったはずです。ただ、学校の勉強であろうとなかろうと、理解したというならきちんと理解したことを示しなさい、ということだったのでしょう。

 

同級生などに教えてくれと言われたら、(相手が疲れてきても気づかないとはいえ)彼・彼女が理解するまでつきあっていましたし、問題の前提がわかっていない/たとえば中学生なのに小学生の勉強が理解できていない 場合には、わかるところまで戻って説明していました。経緯はさておき(いつか書きます)小学生の時には先生を怒らせ「それなら自分で授業しなさい」といわれ、実際に社会の授業を行いました。生徒はみなさん楽しかったようです。先生は余計に怒ってました。

 

つまり、社会的にはどうにもなってないけど、教えるの「だけ」は上手だったといえます。説明といってもいいでしょう。教えるときだけは、相手の反応をみながら理解の程度を推測することができるようになりました。(教えるとき以外に相手の反応を見るのはいまでも困難ですけれど、こっちは精神科医としてのトレーニングで「診察時には」できるようになりました。日常場面はいまでも苦手です)

 

 

家でも、たとえばニュースについて思うことがあれば、説明しろと言われていました。父親が納得できるように自分の意見を説明する、という意味ですね。楽しかったしほめてもらえるので毎日やってました。

筋道立てて説明しないとわかってもらえないので、論理性も培われたような気がします。

 

 

レーニングで発達障害の問題を徐々にクリアすることができるのは、わたしもそうですし、この本に書かれている方法も実際有効だと思います。というか、わたしがやったことを理論化/方法化して誰にでもできるように変換したものが書かれています。

 

というわけで本はおすすめです。

「ワーキングメモリ」の働き、について。

ワーキングメモリ、あるいは、作動能力、についてです。「頭の中の、作業を行うテーブルみたいなもんです」 いやまあそうなんですけどね。

脳が、どれだけのことを同時に行えるか、というほうが、わかりやすいように思います。マルチタスク、といったほうがわかりやすいかな、でも、これ、2つの仕事を同時に進行するってことだけではないので、「マルチタスク」では誤解を招くかもしれません。でも、便利なので、以下、「マルチタスク」で話しますね。

 

 

たとえば電話。受話器/スマホを持っているだけで、話す・聴く・受話器/スマホを持つ、のマルチタスクになります。イヤホンを使うとかなり楽です。

 

 

話すときもそうです。自分が「話す」と「考える」がマルチタスクになってしまうので、考え「ながら」しゃべるのが苦手な人がいます。事前にメモを作るほうが安全です。

これね、言語能力が高い場合、問題が深刻になりやすいです。だって、たくさんしゃべる+考えながらしゃべるのが苦手 → たくさんしゃべって、相手が混乱する。さらにスピードまで速いと、相手はもっと混乱します。相手のスピードが速くてマルチタスク能力(ワーキングメモリ)も高ければ、「聴く」と「考える」を同時に進行させて、整理してくれるかもしれません。

 

 

聴く場合は、事前情報があるとずっと楽です。

大学などの講義であっても、7−8割わかっていて聴くほうが、頭に入るっていいますよね。すべてが新情報だと、ついていける人は少ないです。

 

精神科でも問診票があります。これで、事前情報を収集しておくと、事前情報以外の部分に注目して聴くことができます。「姉が電話してきました」についても、「姉がいる」という事実に注目しなくて済むほうが楽です。

 

「聞いている間はわかった気がしたんだけど、さて、どういう話だったっけ」…… こういう場合、記憶力の問題ではなく、ワーキングメモリの問題であることがときどきあります。

 

 

考えることについても、マルチタスクは関わっています。「比較検討」ってことばがあるじゃないですか。比較って、同時に考えないとできないんですよね。

メリットはこうで、デメリットはこうで…… メリットだけ考えることはできる、デメリットだけ考えることができる、その後、どっちかを忘れたわけじゃない(記憶には問題がない)にもかかわらず、片方についてしか話題にしない。いっぺんに扱えないわけです。

こういう場合、紙に書いて考えたほうが安全です。

 

 

かくいうわたしも、ワーキングメモリがさほど高い方ではないので、診察においても、話の速い人についていくのはたいへんです。聴く・まとめる・話す・書く・診断する、などのマルチタスクです。ときどき死にそうになってます。知能検査などから考えるに、ワーキングメモリを総動員するとけっこう疲れるんですよね。

うっかりしゃべりすぎる件について。

ASDの特徴としてよくいわれるものに、「うっかりしゃべりすぎる」というものがあります。わたしもよくやります。気をつけすぎてしゃべらなくなることもあります。今度は何も言わなかったりします。これもこれで問題になります。あたりまえですね。

 

 

「うっかりしゃべりすぎる」ってなんなのでしょう。

一つは、相手の反応を見てない、ですよね。

 

 

じゃあ、なんで相手の反応を見てない、なんてことが起きるのか。

一つは、自分の話は相手が聞いているものと思いこんでいる。会話は、お互いの話を無条件で最後まで聴くものだ、ということに、疑問をもたない、です。

 

しかしこれ、実際に行われるのは、精神科の診察くらいです。

 

「時間がないとかの事情があるなら、言ってくれればいいのに」 わたしもそう思います。でも、なかなかそうならない。

 

「でも、さえぎるのはマナー違反って習った気がする」 そうなんですけどね。

「聞いている側が、相手の話をさえぎるようなことをわざわざ言うのはマナー違反」という決まりがあるようなんです。

 

聞いている側がさえぎってはいけない、しかし、話している側が話し続けると非難される。矛盾しているように見えます。解決策は?

 

 

多数派の人は、話している側が、「相手の反応を見る」ことで、話の長さなどを自発的に(というか、聞いている側から発信される非言語的メッセージに従って)変えているようなんですね。これ、自発的であればあるほど(話す側の)マナーに沿っていて、相手の反応がはっきりすればするほど、「話している側の」マナー違反に近づくようです。

「相手がはっきりさえぎらざるを得ないほどに話し続ける」のが、「話す側」の、マナー違反なのですね。

 

迷惑ならさえぎれよ、と、わたしは思います。しかし、いろいろ非難されるのもしんどいので、気をつけてはいます。わりと失敗します。相手が怒っていることくらいは感じ取れるからよけいしんどい。

 

 

もうひとつ。

 

ASDの人には、「根本的な理解にたどりついたほうがすっきりして快適である」人がいるように思います。全員かどうかはよくわかりません。

 

明治維新とは、を理解するには、江戸幕府から理解すべき、というか、日本史全部を理解したい! うつ病とは、を理解するのに、精神科の病気とはそもそも何であるのかを知りたいし、うつ病の概念の変遷も知りたい! みたいなことです。そもそも、とか、全体とか、そういうのが気になる。

 

いいんですけどね。勉強するには、この姿勢は大事だと思います。深い理解には不可欠の姿勢です。

 

しかしながら、現実的には、時間が足りないこともあります。わたしは精神科医ですから、うつ病について時間をかけるのはもちろんいいんですけど、日本史とか、知りたいと思った何もかもについて、そもそも、の背景からすべて勉強する時間はありません。

 

でね、これ、話すときにもそうなんです。

明治維新とは、を説明するには、江戸幕府とか日本史全体とかから始めないと」…… 事実かもしれないんですけど、でも、時間がないし、相手はそこまで求めていないかもしれません。

 

 

「○○さんってどういう患者さん?」という質問についても、「45歳男性、うつ病の患者さんで、かなり回復してきました」でいいのか、「45歳男性、うつ病です。会社員で、半年前に発症して4ヶ月前に受診、その時から休職しています。症状はこれこれで、処方はこれこれです。順調に回復して3ヶ月前に復職しました。あと半年薬を続けて終診とする、ということで合意を得ています」のほうがいいのか、時と場合によります。

 

相手の反応を見るのはたいへんなので、そっちにエネルギーを割くためには、「結論から話す」のが楽なようです。上の例でも、まあ、途中で話を終了するとしても、「45歳男性、うつ病です」までは言わせてもらえる。最低限の情報ですよね。

 

 

自発的に話を終わらせるのは難しいです。その超能力、わたしもほしいです。修行はしてます。わたしにとっては、まず結論、というのが、取り組みやすいです。

うつとうつ病と適応障害について。

「うつ」って、よくいいますよね。

「ゆううつ」の「うつ」です。気分が落ち込んだまま明るくなれない、やる気が出ない、動きたくない、というか動けない、という感じの状態を指します。

 

 

状態、といいました。

たとえば、「腹痛」は、病名ではありません。そのいっぽうで、「胃腸炎」は病名です。同じように、「うつ」は、病名ではありません。

 

 

「うつ」については、2つの病名がありえます。

うつ病(あるいは躁うつ病)」と「適応障害」です。

うつ病は身体・体質の問題

適応障害は、本人と、本人をとりまく事情の、相性の問題

と考えてもらえればいいかなと思います。

 

とはいっても、

うつ病で、いろいろな事情に対処する気力がなくなって、適応障害みたいになるとか、適応障害で気力体力を使い果たしたのがきっかけでうつ病になるとか、「両方」ってことも、たまにはあります。

 

 

昔から、昇進をきっかけにうつ病になる人がいます。

自分に向いた仕事でがんばって、昇進も以前から希望していて、じっさい認められて昇進して、まわりも喜んでくれている。でも、本人は調子をくずしている。

こういうのは、うつ病のことが多いです。

 

 

適応ってなんですか、と、聞かれることがあります。

現在の状況になじんでいるかどうか、ってことです。

 

これ、2つの要素があります。

・状況との相性

・本人の能力とか努力とか

 

相性のほうがメイン、というのが印象です。わたしも、事務の仕事を任されたら、ぜったいに適応障害になると思います。事務職に必要なあらゆる能力が足らないからです。電話も苦手ですし、字もあんまりきれいじゃないですし、エクセルは使えるけど嫌いですし、ファイルの整理整頓とかいつまでたっても終わりませんし、コピーはよく曲がってますし、そもそも、きちょうめんさが足りません。

とはいっても、たとえば、事務の中でもわたしにできそうな仕事があって他に得意な人がいなくて、自分の得意分野で活躍することができれば、適応障害にはならないかもしれません。この場合、得意分野について精進するだけでなく、をアピールする「努力」が必要そうですよね。

努力して、エクセルのエキスパートになることも、できるかもしれません。エクセルが向いていれば、ですけれど(自信ない)。

 

 

もちろん、人間関係が原因のこともよくあります。パワハラ上司とか、適応障害の原因ナンバーワンです。

とはいってもこれも難しい問題で、そもそも向いていない仕事の場合、努力してもなかなか向上しないから上司もイライラするし本人も落ち込むしで、そもそもあんまり気が合わない組み合わせの関係がさらに悪くなっている、という可能性も、ないとは言い切りづらいです。

 

まあ、上司がパワハラ気質であろうとなかろうと、適応障害適応障害、ということが多いです。

 

 

合わない仕事だからつらい、とか、ふつうですよね。健康な人でも、つらいものはつらいです。

専門的にはいろいろありますけれども、休んだほうがいいかどうかについてのかんたんな目安は、「気分転換できるかどうか」だと思います。ふだん気晴らしになっていることで、気が晴れるかどうか。休みの日の気分はどうか。

「もうちょっとがんばりたい」「もうちょっとがんばれる」と思えるかどうかも大事です。「もうちょっとがんばらねば」ではないですよ。「もうちょっとがんばれるはずだ」とも違います。「もうちょっとがんばれる、と思いたい」とも区別する必要があります。ここ、難しいんですけど、わりと重要。よくよく聞くと、本人が、じつはきちんと判断できていることも多いです。

ちなみに、この判断が、事実と完全にずれている場合は、休んだほうがいい可能性が高いです。ここの区別がじつは、いちばん重要です。

 

 

うつ病の要素も適応障害の要素もある場合、診断書には、「うつ病」と書くことのほうが多いです。適応障害っていうと、「そうかこの仕事向いてないってことね」と、いろいろ不利益がある、ってこともときどきありますから。

 

 

精神科って、医学ではありますけれど、そんなに難しいことを考えているわけではなかったりします。薬もシンプルですよ。薬についてはまたいずれ。

忖度と指揮命令系統(?)

病院にも、指揮命令系統は存在します。

 

たとえばわたしは医者です。自分が主治医である患者さんについて…

経営陣や院長のいうことは聞く必要があります。

病棟の患者さんについてであれば、看護師長と話し合って決めます。

その他のスタッフについては、意見は取り入れることはできますけれども、そのとおりにする必要はありません。

 

たとえば、持病のある患者さんが、持病の定期受診に行く、という場合。わたし(主治医)は行くべきだと思っているとします。たとえば:

経営陣や院長から「コロナなので延期しなさい」→たぶん延期します。反論はするかもしれません。

看護師長から「コロナなので延期したい」→話し合います。

事務員から「コロナなので延期してほしい」→いちおう一意見として聞きはしますけれども、わたしがそれに従う「必要」はありません。

 

 

ここで、事務員からの「コロナなので延期してほしい」は、本来、わたしは従う必要はありません。わたしは患者さんに対して責任がある一方で、事務員にはその責任はあるにしても軽いからです。責任が重いほうが決定権があるのは道理です。

 

しかし、忖度を求められることはあります。

たとえば、経営陣の意見であるという「雰囲気」があったりするわけです。

「それ、あなたの意見ですか」と尋ねると、なんだかはっきりしない。だって、事務員自身の意見であれば、わたしは(自分の方針と相容れない場合)それに従う必要がないからです。

では、「それ、経営陣の意見ですか」と尋ねると、これもはっきりしません。経営陣の意見であると明言すると、経営陣のメッセージを伝えるメッセンジャーということになります。経営陣がわたし(医者)に、はっきりとものごとを伝えた場合、責任が発生しますよね。これは、忖度になっていない。

 

というわけで、「誰の意見か不明なので、聞く必要はないと思います。経営陣の意見であれば、そのように明らかにして申し入れてもらえれば、検討します」…… 忖度の拒否ですね。

 

反抗するのが趣味なのではありません。患者さんの持病とコロナのリスクを天秤にかけて、主治医の責任で患者さんの持病を優先する、というだけです。でもこれ、まあ、上層部を怒らせがちです。そして、この例ではあたかもわたしが忖度の強要に気づいているかのように書きましたけれど、そもそも、ふだんは、わたし自身、忖度に気づけない。忖度しろという暗黙の指示? に、従う従わない以前に、まったく気づけないことのほうが多いです。

 

 

「いやまあ忖度しろという暗黙の指示が、アンフェアとはいえ存在することはいいとして、この場合、その持病のある患者さんの不利益については、勘案した上の指示なんだろうか」

忖度により上層部は責任を逃れることができます。わたしが、さも自分の判断であるかのように「コロナだから定期受診は延期」と言い、その患者さんの持病が悪化したとして、わたしの責任ですよね。上層部の責任にはならない。

そこまでは理解できるとして、患者さんの持病の件はどうなったのか。みんな、持病が悪くなるリスクは重々承知の上であえて無視しているのか。ずっと疑問でした。

 

 

どうも、患者さんの持病の件は、しれっと、まるっと、忘れられているらしいんですよね。組織の「和」の前では、患者さんのこうむる不利益とか、わりとあっさり無視される、ということなのだそうです。

 

「でも不利益は不利益で、わたしが患者さんに、不利益を与える判断を下すわけにはいかない」

「その、患者さんの不利益が見えていること自体が、忖度ができてないってこと。忖度ができる人は、忖度で視界が覆われて、患者さんの不利益は見えない、というのが普通だから」

 

…… 忖度なんかできなくてもいいようにも思います。こんなこと言ってるから、いつまでたっても社会不適合者のままなんでしょうけどね。