レビューと考察と個人的感想:「発達障害考察本」

 

 第2章についてがいちばん書きやすいので第2章について書きます。

第2章は、「コミュ障」の解決法で、説明が上手になる方法です。実際、練習するかいのある方法が書かれているので、ほんとおすすめです。気になる方は本を読んでみてください。

 

 

これ、わたしも、原理的には同じ方法でクリアしているんです。現在、空気は読めないものの「説明が上手な医者」「彼女に教わればわかるようになる」という評判(すべてがお世辞ではないと思います)なのは、幼少時からの訓練のたまものです。

 

関連エピソードなので自分のことを書きますね。

 

 

わたしが小学生の頃から、父親に繰り返し言われていたことがあります。

「他人に説明できてはじめて、理解できたといえる」

「他人に教えることは理解を深めるから、教えてほしいと言われたら彼彼女がわかるまできちんと教えなさい」

でした。

大人になって、理解はしているけれども説明はできないという人が存在していることにやっと気づき、驚いた記憶があります。とはいっても、いまでも、説明できてはじめて理解できたというのではないかとかすかに疑ってはいます。

 

 

で、他人に説明というのを、毎日トレーニングしていたわけです。たぶん、父親には「教育」という意図はなかったと思います。少なくとも、受験などの「結果」を意識してのことではなかったはずです。ただ、学校の勉強であろうとなかろうと、理解したというならきちんと理解したことを示しなさい、ということだったのでしょう。

 

同級生などに教えてくれと言われたら、(相手が疲れてきても気づかないとはいえ)彼・彼女が理解するまでつきあっていましたし、問題の前提がわかっていない/たとえば中学生なのに小学生の勉強が理解できていない 場合には、わかるところまで戻って説明していました。経緯はさておき(いつか書きます)小学生の時には先生を怒らせ「それなら自分で授業しなさい」といわれ、実際に社会の授業を行いました。生徒はみなさん楽しかったようです。先生は余計に怒ってました。

 

つまり、社会的にはどうにもなってないけど、教えるの「だけ」は上手だったといえます。説明といってもいいでしょう。教えるときだけは、相手の反応をみながら理解の程度を推測することができるようになりました。(教えるとき以外に相手の反応を見るのはいまでも困難ですけれど、こっちは精神科医としてのトレーニングで「診察時には」できるようになりました。日常場面はいまでも苦手です)

 

 

家でも、たとえばニュースについて思うことがあれば、説明しろと言われていました。父親が納得できるように自分の意見を説明する、という意味ですね。楽しかったしほめてもらえるので毎日やってました。

筋道立てて説明しないとわかってもらえないので、論理性も培われたような気がします。

 

 

レーニングで発達障害の問題を徐々にクリアすることができるのは、わたしもそうですし、この本に書かれている方法も実際有効だと思います。というか、わたしがやったことを理論化/方法化して誰にでもできるように変換したものが書かれています。

 

というわけで本はおすすめです。