謝罪と記憶とフラッシュバック。

発達障害の精神病理Iなる本を読んでいます。それをふまえて、謝罪の件(皿の件)をもう一回考察してみます。

発達障害の精神病理 1

発達障害の精神病理 1

 

 ひさびさに精神病理の本格的な本を読みました。たのしいです。

 

 

エピソード記憶の断片化・脱文脈化というのが書いてあったんですよね。エピソード記憶というのは、「これこれこういうことがあったんですよね」という記憶のことです。どこそこで誰々と会いました。昨日彼の所有物である皿を割りました。などなど。

断片化・脱文脈化というのは、自分史みたいなもののなかに、うまく収まらない記憶があるという意味ですね。自分史をまとまったひとつのおはなしとして語ろうとすると、どうもうまくいかない。さらには、それらが、今の自分とうまくつながっていない。

ちょっと待て、定型発達のひとの自分史は、全力でよけいなエピソードを排除し、また、つながっていないところをつながったふりをしなくても、まとまるものなのか、ASDのわたしにとっては、「まずはそこから」です。

 

 

この話、皿の話とつながるんですよ。

 

わたしが、皿を割って怒られるとするでしょう。これ、ふつうは「恐怖」です。皿を割ったことについて言及されることは当然ですし、何らかの対処を要求されることも当然です。そこまでは別にいい。しかし、なぜそこで「怒り」が生じるのか、大声とか威嚇のジェスチャーとか、そういうものが自分に向けられるのか、さらには、自分なりの対処をしたのにそれが火に油を注ぐのはなぜなのか。

「自分だったら」と考えるのが危険なのは今はわかりますけれど、とくにこどものころは、自分を参照して事態を理解しようとするでしょう。自分の皿を誰かが割ったとして・・・? どう考えても、同じ反応をするとは思えない。大混乱です。

 

わけのわからないことは、フラッシュバックしやすいです。先日久々に大声で叱責される場面があり、勉強会の場でしたしできればその内容をマスターしたいという気持ちはあったのですけれども、予想のとおりその場面がフラッシュバック化しまして、結局何も覚えていない。「ふつうに」思い出せないわけです。これ、たとえばその勉強会の記憶というストーリー(文脈)から外れちゃってますよね。これが脱文脈化です。

 

 

わたしの父親はよく怒鳴るひとでした。「瞬間湯沸かし器」と本人すら認めていました。しかし、彼に怒られたことは、フラッシュバックしないんです。愛情とは関係ないと思います。

というのも、父はわたしと同様ASDでして、怒りを表明するにあたり、怒りの原因を明らかにすることが自分の責任であるという考えを強く持ち、自他に(ナチュラルに)強要していました。すなわち、「父はなぜ怒鳴っているか」について、わたしは疑問に思う必要がなかったわけです。また、改善策と予防策を述べることで、その場から解放されるのが常でした。ひょっとしたら父親の怒りそのものは続いていたのかもしれません。しかし、父としては、改善策と予防策を述べたあずさに対して怒りを表明することは、原因が消えたのに怒りを表明するという、彼の自分的常識に反する事態ですから、不可能だったんだと思います。

わけがわかれば、フラッシュバックする確率は激減します。

 

 

こういう父親みたいな人ばかりではないので、わたしの記憶には(とくに、叱責の場面の)フラッシュバックが多く含まれます、というか、フラッシュバックは通常の記憶の欠落ですので、わたしの自分史にはフラッシュバック化したがゆえに欠けてしまいつながらなくなってしまった部分が多く含まれます。

 

記憶の断片化には、他にも理由があるとは思います。まとめる力の弱さも関わっているでしょう。それについては、また後日。