ごめんなさい、っていったい?
謝られてもピンとこない、謝れと言われてもピンとこない。そんな話をしてきました。弁償はわかります。再発予防も必要です。で、謝るって何でしょう。わたしはどこでひっかかっているのでしょう。
以下、問題の解決/再発予防を行うことは前提としてお読みいただければと思います。
1) 謝る―許す という社会的約束
学校で、「謝っているんだから許してあげなさい!」と言われて何度も理不尽な思いをしました。謝るなんていう動作/ことばに、なんの意味があるのだと。その動作/ことばで、相手が自分に与えた損害をなかったことにせよというのはどういうことなんだろう、と。
しかし、です。かりにこれが一切通じない世の中だったとして、すべての損害(故意かどうかは問いません)は弁償と再発予防でのみ償われ得るとして、わたしは別にそれでもいいですけれども、大した問題ではない場合、面倒だ、と言われそうな気もします。
つまり、「謝る―許す」はセットになっている。これ、ひっくり返すと、許してもらうために(とりあえず)謝る、ということになります。
おそらく、なんですけど、わたし、この「許してもらうためにとりあえず謝る」の「とりあえず」を、けっこう敏感に感じ取る気がします。弁償と再発予防を省略するための手段をもちいて、その省略を強制されている気がするのですね。これを認めろというのはしんどい。
さらには、謝ることで弁償と再発予防を免除されてしまうことにも、居心地悪さを感じます。
「でも、社会的約束だし、謝られれば許す、謝れば許される、少なくとも罰の軽減にはつながるらしい」と、学習して割り切ろうとしているところです。
2) 「もうしわけなさ」を表現する手段
相手の皿を割ったとして、申し訳ないという気持ちはわたしにだってあります。皿にも申し訳ないですけれども、相手にも申し訳ない。この「もうしわけなさ」を表現する手段が、謝るという動作・ことばなのかなあとも考えます。
「ごめんなさい」と申し訳なさの間には、必然的なつながりはありませせん。言語学みたいですけど、皿と「皿」「サラ」の間には、絶対そうでなければならないという関係はない。だって、英語では「プレート」かなんかですし。「皿」じゃない。
わたしには、このつながりがすごく弱く感じられます。これをセットで学習するひとは多いんだろうと思うのですけれど、ごめんなさいというのが、申し訳ないという感情の表現であるというのが、どうもピンとこない。
しかしこれは、皿が「皿」と呼ばれるように、申し訳なさをあらわす記号は「ごめんなさい」である、と辞書的につなげれば、ひょっとしたら便利かもしれません。
3) それはわたしがやったことです
これも、ピンとこなかった役割のひとつです。ごめんなさい=自分がやったことだと認める、ということでもあったのですね。
これ、「自分がやったことなのだから自分がやったとわかっていますしそれを認めないなんてありえません」という、(自分が認識している限りの)事実=誰に対しても認める という等号が自分の中で成立していたので、自分がやったことだとわかっていてもそれを認めない場合があり、それを認めることにはそれだけで価値がある、なんて考えつかなかったのです。
つまり、「ごめんなさい」と述べることは、責任を認めない人もいるなか責任をひきうけるという、(わたしにとっては当然であっても)よのなかでかならずしも当然とは言えない、ことさらに取り上げて賞賛すべきことである、ということですね。これも最近知りました。あたりまえじゃなかったんだ!
- 謝れば許す、謝れば許される、ということが、少なくとも部分的には弁償と再発予防の代わりとなってしまい、場合によっては(わたしにとって、真の)解決を遠ざける。
- ごめんなさいと申し訳ないという気持ちがリンクしていない
- ごめんなさいというのは自分の責任を認めるということであるもののそれは当然のことでありとくに意味を持たない。
そりゃあ、謝罪に意味は見いだせませんよね。
しかし、これは、以下のように書き換えることができます。
- 謝れば許す、謝れば許される、というのは、弁償と再発予防という多くの人にとってはわずらわしい手続きを軽減するための社会的約束である。(悪用するひとはいるけどそれは仕方ないとする)
- ごめんなさいというのは、申し訳ないという気持ちを表す記号であり、そのつながりは皿が皿と呼ばれるごとくとくに根拠はない
- ごめんなさいと述べて、問題の事態が自分の責任で発生したと認めることは、あたりまえではなく賞賛すべきことである
このように書き換えれば、わたしだって、謝罪について、もう少し「素直に」受け取れそうです。
これ、「ありがとうございます」については納得できてるんだよなあ、なんでだろう……。