相対評価、絶対評価。

たとえば、今回のテストで、わたしの点数が70点、Aさんの点数が70点だったとしましょう。さて、次のテスト。

・わたしの点数が90点、Aさんの点数が70点 → 嬉しい

まあ、そうですよね。これは理解していただけると思います。これはどうでしょう。

・わたしの点数が60点、Aさんの点数が50点 → ?

わたしは、「60点なんて残念だ」と思うでしょう。しかしここで、「Aさんに勝った、やったね」と喜ぶ人もいるような気がします。「60点なんて残念だ」と思うのは、わたしがASDであることと関係しているかもしれないと考えています。

 

f:id:asph29:20200131102830p:plain

 

 

誰だって、絶対評価相対評価も、両方が見えていると思います。優先順位の問題かしら。定型のひと(相対評価を優先するひと)が間違っているとか劣っているとか言いたいわけでは決してありません。ASDのひと(絶対評価を優先するひと)が正しいとかすぐれているとか言いたいわけでもけっしてありません。

 

言いたいのは、「相対評価が(ほとんど)見えないというのは、ひょっとしたら、社会性の欠落と結びついているのではないだろうか」ということです。わたしに相対評価が見えないのは、わたしに何か欠けているのではなかろうか、ということですね。たぶん欠けているんです。以下、その説明です。

 

 

相対評価(自分が勝っているか負けているか)を重視するひとが集まったとしましょう。ということは、他人についても、勝っているか負けているかを気にする可能性が高いですよね。

この場合だと、絶対評価、つまり点数が見えづらくて、相対評価、つまり上下が気になるでしょう。自分も周りも、です。

 

f:id:asph29:20200131103725p:plain

 

この場合、右の2つの絵って、ほとんど差がないですよね。

 

これに対して、絶対評価(自分の点数)ばっかり気にするひとではどうでしょう。たぶん、周りにどう思われるかについてもあまり気にならない(だって、自分の点数しか重要じゃないわけですし)気もしますけれど・・・

f:id:asph29:20200131104030p:plain

他人はある意味どうでもいいので、自分の点数だけが問題です。一番右の図では自分の点数が下がっている。(ライバルはどうでもよくて)点数が下がったから、かなしい。

他人が見えていない/他人に注目できていない、に近い気がします。自分と他人との勝負が成り立ってなくて、自分と試験問題の勝負しかできていない、みたいな。

 

 

これは、何かを努力して乗り越えたみたいな話ではぜんぜんありません。もとからそういうものが見えづらい(見えない)らしいのです。だから、定型(たぶん)の人たちの批判ではなくって、そういう人もいるんですよ(少なくともわたしはそう)という説明にすぎません。ただ、そういう「まさか」こそが、障害の障害たるゆえんなのかもしれないと思ったりもしています。